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岐阜地方裁判所 昭和27年(わ)602号 判決

被告人 金本鐘得こと金鐘得 外五名

主文

被告人等はいずれも無罪。

理由

第一、(公訴事実)

一、被告人金鐘得は刑法第七十七条の罪を実行させる目的を以て昭和二十七年八月二十三日頃岐阜県可児郡中町中、徳島炭鉱々業所第一坑附近において同鉱業所従業員岡田尋外六名(釈明によれば平井久夫、生駒信男、多田権一、籠橋照一、笹川茂作、灰谷司の六名)の者に対し別紙パンフレツト各一部を頒布し、

二、被告人斎藤章治は刑法第七十七条の罪を実行させる目的を以て昭和二十七年八月六日頃より同月下旬頃迄の間に於て前後数回に亘り岐阜県益田郡下呂町役場外二ヶ所に於て二村鋭次外十名(釈明によれば、日下部康登、黒木正郎、松田梁蔵、牧理平、今井貫一郎、二村竹松、中川貞、中川登志夫、久保清雄、中川繁太郎の十名)に対し別紙パンフレツト各一部を頒布し、

三、被告人田口早苗は内乱の罪を実行させる目的を以て

(1)  昭和二十七年八月初旬頃岐阜県益田郡下呂町大字湯之島千四百四十番地の一中川和雄方に於て同人を介し同人弟中川佳也に対し別紙パンフレツト約六十部を交付し

(2)  同年八月末頃同郡下原村大船戸足立金物店附近道路上に於て亀山幸に対し別紙パンフレツト一部を交付し

(3)  同年十月二十日頃同県武儀郡金山町千七百四十七番地の一升田貞夫方に於て同人に対し別紙パンフレツト一部を交付し、以て頒布し

四、被告人田中達郎は内乱の罪を実行させる目的を以て

(1)  昭和二十七年七月末頃岐阜県益田郡萩原町千二百六十七番地被告人方居室に於て西村吉隆に対し別紙パンフレツト一部を交付し

(2)  前同日より二日程後に右同所に於て右西村吉隆に対し別紙パンフレツト四部を交付し

(3)  同年七月二十八日頃右同所に於て中川佳也に対し別紙パンフレツト十二、三部を交付し

(4)  同年十月五日頃右同所に於て池本恕弥、荏開津典生に対し別紙パンフレツト各一部を交付し

以て頒布し

五、被告人古滝富栄、被告人後藤重博は内乱の罪を実行させる目的を以て

(1)  被告人両名は共謀の上昭和二十七年九月中旬頃岐阜県大野郡丹生川村大字大萱千四百二十七番地被告人後藤重博方に於て和道一夫に対し別紙パンフレツト二十部を交付し

(2)  被告人古滝富栄は同年八月下旬頃から同年九月下旬頃までの間前後四回に亘り同郡丹生川村町方四十五番地の一、玉田和男方外三ヶ所に於て同人外三名(釈明によれば和道一夫、畑良兵、坂口昌平の三名)に対し別紙パンフレツト各一部を交付し

(3)  被告人後藤重博は同年八月上旬頃から同年九月下旬頃迄の間前後四回に亘り同郡丹生川村大字大萱四百四十九番地向田久安方外三ヶ所に於て同人外三名(釈明によれば増田秀平、羽根清松、藤原弘の三名)に対し別紙パンフレツト各一部を頒布したものである。

第二、破壊活動防止法第三十八条第二項第二号の合憲性について。

検察官は前記公訴事実記載の被告人の所為は刑法第七十七条の罪を実行させる目的をもつて、その実行の正当性又は必要性を主張した文書を頒布したものとして破壊活動防止法(以下破防法と略称する)第三十八条第二項第二号に該当する旨を主張し、被告人及び弁護人は先づ破防法第三十八条第二項第二号は国民の言論出版等表現の自由を保障している憲法の規定に違反する旨を主張する。破防法第三十八条第二項第二号が処罰の対象としている行為は所定の目的を以てなされる所定内容の文書の頒布その他の行為であり、その対象が言論の表現行為に属することは明らかである。思想及び良心の自由言論出版等表現の自由は憲法第十九条、第二十一条において、これを保障するところである。憲法の保障する基本的人権は憲法第十一条、第十三条、第九十七条等においてくりかえし、その尊重、確保、永久の不可侵が規定せられている。憲法が規定し、又そのよつて立つ自由民主主義国家社会の根本的原理の一は、国民の自由の最大限の保障にある。国民個々の尊貴平等なる人間性を明認し、その自由なる精神的、政治的、社会的活動の上に国家社会が立ち、又発展進歩して行くことを憲法は自由民主主義国家の根本原理とし且つ人類の普遍的原理とするのである。憲法はその前文において自由のもたらす恵沢を確保する旨を述べ、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚すること並びに、政治道徳の法則の普遍的なものであることを信ずる旨を宣明し、第十一条において、この憲法が国民に保障する基本的人権は侵すことのできない永久の権利であると規定し、第九十七条にこの憲法が国民に保障する基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつてこれらの権利は過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し侵すことのできない永久の権利として信託されたものであると規定していることは、国民の自由が単なる制度的方便ではなくして、人性の根源に基くものであり、人類の理念、人間社会の普遍的根本原理に依拠するものであること、国家社会の創造発展と福祉がそれによつてもたらされるものであることを認めているのである。憲法第十二条は、後段において国民はこれを濫用してはならないのであつて常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふと規定し、第十三条はすべて国民は個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については公共の福祉に反しない限り立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とすると規定する。これは自由に内在する普遍妥当な自律性、社会性、自由相互、自由と憲法秩序との調和性を明認しているものである。人性の普遍原理たる自由は必然的にこの普遍妥当な自律性、社会性、調和性を内在するものであり、かゝる自由の発現こそ、恵沢ある公共の福祉をもたらすものと謂うべきであつて、本来自由と公共の福祉とは背反するものではあり得ないのである。しかし自由はその現実態において、右の如き自性を欠き濫用の相をとることがある。公共の福祉によつて一般に自由が制限されるというのではなく、かゝる自由の濫用の相は公共の福祉に反するが故に自由本来の保障を失うものと解すべきである。従つてこの場合においても憲法の認める本来の自由権は何等侵されるものではない。制限されるのは濫用された自由であり、それは自由の名において自由の本性を欠いたものであるからである。しかし自由、殊に精神的自由、政治的自由に関しては、何が自由の濫用であり公共の福祉に背反するかと謂うことは一般的に規定し難い困難な問題を包蔵しており、右の意味における自由の制限は本来の自由を侵すことのないように例外的制限として具体に即し能うる限り必要最小限度になさるべきことは憲法が自由の権利を不可侵となし、最大の尊重の必要を明定しているところからも明らかである。憲法の保障する各種の自由の中で思想及び良心の自由は人間精神の自由の骨核をなすものであり本質上濫用制限の考えられないものである。言論等表現の自由もまた自由民主主義社会の基調土台をなすものであつて、自由民主主義社会成立の歴史は言論等表現の自由が確保保障されて行く歴史とも言い得るものである。言論等表現の自由を保障することは自由民主主義社会の存在そのものにとつて不可欠のものであり、言論等表現の自由の最大限の保障の上に国家社会の自由濶達なる生活、文化の創造発展があり、専制政治の暴力的危険を排して民主政府、民主政治の平和にして繁栄ある進歩があると謂うことは何人も肯認するところであろう。而も人類の自由獲得の努力によつて得られ、幾多の試錬に堪えて確立された言論等表現の自由の原理は、真実公正の言論は他の言論を沈黙圧伏せしめることによつて決して得られるものではなく、種々の思想が一般に容認さるべく互に充分に表明討論されることによつて虚偽謬見が暴露され人間の理性、善意に適つた言論があらわれ来たるという言論等表現の自由の自律性の最高度の尊重の上に立つのである。かゝる自由民主主義社会の基調として憲法の保障する言論表現の自由の原理は必然的に、言論等表現の自由の制限禁圧せらるべきは具体的に明白な自由の濫用行為にしてその表現行動について公共の安全福祉に対し明らかな差迫まつた危険を及ぼすことが予見される場合に限るという必要最小限度の原則を生み出すのである(昭和二九年一一月二四日、最高裁判所大法廷昭和二十四年新潟県条例第四号違反被告事件判決参照)。破防法第三十八条第二項第二号が処罰禁止せんとする頒布行為は(本件に該当する部分)刑法第七十七条の罪を実行させる目的をもつて、その実行の正当性又は必要性を主張した文書の頒布行為である。而も破防法第二条はその適用について公共の安全の確保のために必要な最小限度においてのみ適用すべきである旨を規定している。

刑法第七十七条の内乱罪は政府を顛覆し又は邦土を僣窃しその他憲法の定める基本的政治組織、秩序を暴動を以て変革せんとする犯罪である。その公共の安全福祉を侵害すること顕著最大なるはいう迄もない。かゝる犯罪を実行させる目的を以てその実行の正当性又は必要性を主張した文書を頒布する宣伝流説の行為は、内乱罪実行を志向する広義の準備行為たる性格をもつ表現行為であつて、破防法第三十八条第二項、第二号はその行為がかゝる目的行為なること及びその文書内容を規定することによつて、抽象的な議論、現実性のない教説等専ら意見の交換や、思想上の論議を求める行為と区別して、その処罰対象を特定具体化し、かゝる特定の表現行為が前記の如き必要最小限度の原則に触れる場合、その表現行為は最早自由の濫用であり、公共の福祉安全に背反するものとして制限処罰せんとする法条と解すべく、かゝる処罰規定は憲法の保障する表現の自由を侵すものでないことは明白であると謂うべきである。

尚弁護人は破防法第三十八条第二項第二号は刑法にさだめられた以外の新しい種類の目的罪をつくり上げている。人間の意思内容そのものを処罰の対象とすることは罪刑法定主義の原則から逸脱し無制限なるべき内心の自由を侵すものである。刑法の目的罪はその目的が客観的行為から独立して処罰の対象となるような法的性質のものではなく、その目的の有無は、それ自体として違法性をもつ行為の責任を加減する基準となるだけであつて、なんら違法性のない行為を犯罪行為にまで変える力をもたない。内乱実行の正当性又は必要性を主張した文書を頒布する行為は憲法上の基本的権利の一つで何等違法性をもつものではない。このような行為がいかなる目的でおこなわれようと新しい犯罪になるはずはなく、それを犯罪とすることは目的そのものを処罰する誤りを犯すものである。而も破防法第三十八条第二項第二号は内乱罪という目的罪を目的の内容とする二重の目的罪であり他人の目的を頒布者の目的としているものである。人は他人が将来特定の時に特定の意思内容をかならず持つことを目的にし得るものではない。二重の目的罪をつくつた破防法の同条項はおこり得ないことを、そして本人の自白以外に立証し得ないことを、しかも明白且つ現在する危険のないことを処罰の対象とする無効違憲の規定である旨主張するが、同条項は単に内乱実行の目的のみを処罰するものでも、当該文書頒布行為のみを処罰するものでもない。各種の表現行為の中で、内乱の罪を実行させることを目的としてその実行の正当性又は必要性を主張した文書を頒布するという特定の表現行為は、その目的と頒布行為が不可分に合致することによつて公共の安全福祉の最大の侵害たる内乱罪の実行の広義の準備行為たる性格を帯有するが故に、その特定の表現行為が前述のごとき自由の濫用の相をとつた場合、それを処罰するものであつて、目的と頒布行為とを別個にきりはなして各別にその違法性の有無が評価さるべきものではない。又同条項は目的罪を規定するものであるが、二重の目的というも、行為者の意識外にある他人の目的に行為者の目的内容を依存せしめようとするものではなく、あく迄行為者の持つ目的の内容を特定規定する問題たるに過ぎない。そして「内乱罪を実行させる目的」即ち「他人をして憲法所定の基本的政治機構の変革を目的とする暴動行為を実行させるという目的」内容は心理的、経験的事実として充分に存在し得る意思内容であつて、且つかかる意思内容が客観的に立証不可能な心理内容を為すものとも考えることはできないし、かかる目的を以て、その実行の正当性、又は必要性を主張した文書を頒布する宣伝流説の行為がいかなる場合においても、具体的に明白な自由の濫用行為として公共の安全福祉に明らかな差迫まつた危険を及ぼす惧れがないとは認めることはできない。弁護人の右各主張は採用できないのである。

第三、「山旅案内」頒布の事実について。〈省略〉

第四、本件文書「山旅案内」の内容。

本件文書は前掲押収にかかる印刷物山旅案内により明らかな如くB六活版刷り小冊子で表紙上段に山旅案内と題記され、下段に観光協会の記載があり内容五十九頁に亘るもので、その内容の概要は次の通りである。(中略)

以上が「山旅案内」の内容の概要であるがその内容よりおのずから明らかなごとく、右はマルクス・レーニン主義を奉ずる共産主義政党たる日本共産党及びその下部機構たる日本共産党岐阜県委員会の立場から日本の現状(終戦後から殊に昭和二十六年(西歴一九五一年)、昭和二十七年(西歴一九五二年)にかけての)をアメリカ帝国主義の占領支配しその隷属搾取の下におかれた植民地従属国の状態にして吉田自由党政府によつて代表される反民族的反動売国奴勢力がアメリカ帝国主義と結託しその支柱となり、日本国民を搾取し、その搾取を激励し居り且つ日本国民を新しい戦争に引き入れようとして居り岐阜県においてもその関係が明瞭にあらわれていると規定し、独立自由の民族解放のためには何よりも先ず吉田自由党反動政府それをまもる反動勢力武装した権力(敵)を打倒し、日本共産党の当面の要求たる新しい綱領その岐阜県的具体化たる解放綱領を実現する国民政府を樹立すべき革命斗争を組織するより他なくその革命の性格は民族解放民主革命にして、その方法は平和的方式を放棄し日本共産党の指導下に労働者、農民及び一切の進歩的勢力を結集し而も党軍事委員会の指導統制する中核自衛隊を基礎とし次第にパルチザン、人民軍と発展すべき軍事武装組織を持つ民族解放、民主統一戦線を強化発展せしめる武力革命方式によるべきものとし、その必要なること又正当なることを主張し、その革命戦の戦略戦術の準則図式を説明して革命戦は奇襲遊撃を主としつつ革命勢力、革命軍事力を培養強化発展せしめ、敵味方の勢力の比重を変え、地域的に敵の支配を武装力をもつて覆えし、軍事組織の参加した民族解放民主統一戦線が地域的支配を確立し根拠地を作つてゆく防禦戦の段階から最後の斗争の形である攻撃戦即ち労働者、農民のパルチザン部隊の総反抗と、これに結合した労働者階級の武装蜂起によつて敵の権力を終局的に打倒勝利する追撃戦に進むべく現状は防禦遊撃戦の段階たることを述べ、特にその防禦戦の組織、戦術、戦略を詳細説明し今や道は唯一つ民族解放民主統一戦線を結集しその武装革命の道以外にないことを主張し、日本共産党岐阜県委員会の名においてそれへの参加同調更には入党を訴えている内容のものなのである。証人熊崎敦、大野すみ子、久世良夫、清水孝祐の各証言、熊崎敦に対する裁判官の証人尋問調書(被告人斎藤章治についてのみ証拠とする)大野すみ子の検察官に対する供述調書(被告人金鐘得、同田中達郎についてのみ証拠とする)久世良夫、清水孝祐の検察官に対する各供述調書(被告人金鐘得、同田口早苗、同田中達郎についてのみ証拠とする)、昭和三十二年一月二十二日付岐阜地方公安調査局長作成に係る松尾孝和に関する団規令届出事項回答書の記載を綜合することにより団体等規正令所定の届出のなされていた頃(同令は昭和二十七年七月二十日廃止)においては日本共産党岐阜県委員会所属届出党員であり同委員会県委員であつたことの推認される松尾孝和が昭和二十七年六月頃岐阜市所在熊崎印刷株式会社に「山旅案内」の原稿を交付して二万部の印刷方を依頼し右熊崎印刷株式会社はこれを岐阜市若宮町所在日新印刷株式会社に発注したところ、同年七月十四日頃より同月二十日頃までの間に右会社より熊崎印刷株式会社に対し合計二万部の完成引渡しがあり、同年七月中旬頃より同月下旬頃にかけ岐阜市下竹町二十五番地熊崎敦宅においてその荷造梱包がされその頃他に発送された事実を認めることができる。

発行日一九五二年六月、発行所東京都渋谷区千駄ヶ谷四の七一四日本共産党出版局なる「国民の要求―日本共産党の新綱領―」(証第六十九号)及び証人佐藤直道の証言によれば「山旅案内」中の前記日本共産党の当面の要求=新しい綱領=と題する部分(判示第四の(二)の部分)は当時日本共産党が昭和二十六年十月の日本共産党第五回全国協議会において採択された同党の新綱領として世に発表していた内容と同一であることが明らかである。

又「山旅案内」中の前記第十三頁より第三十二頁九行目までの十項目の問答体内容(判示第四の(三)の(1)乃至(10)の部分)は押収にかゝる球根栽培法―第二巻第二十二号―一九五一年十一月八日号―なる小冊子(証第八十号の二)中の「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」と題する十項目の問答体の内容と殆んど同一であることがわかる。而して右球根栽培法はその前文に「第五回全国協議会は万場一致で新しい綱領を採択した。この軍事問題についての論文はわれわれが不充分ながら行つてきたこの問題についての実践の発表であると共に新しく採択された綱領にもとづく具体的な指針である……」と主張している。右球根栽培法中の論文が何時何処で何人によつて作成されたものであるかは本件立証において具体的に確認し難いけれども、その内容は前記新綱領の具体的実践方針としてその軍事問題を論じたものであることは明らかで当時他に存したかゝる文書と本件「山旅案内」が前記のごとき一致をもつことは注目すべきである。

又本件山旅案内中の前記第三十六頁十一行目より第四十九頁に亘る六項目の問答体部分(判示第四の(三)の(13)乃至(18)の部分)は押収にかかる球根栽培法―第二巻第二十七号なる小冊子(証第八十号の一)中の「一九五二・一・二三付中核自衛隊の組織と戦術」なる論文中の二、隊の組織と構成三、武器と資金について四、志気と政治教育五、軍事行動と大衆行動六、遊撃戦術について七、作戦と行動(証第八十号の一、第三頁より第十三頁まで)と内容が全く同一であることがわかる。この論文はその前文において「軍事問題についての論文「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」が発表された結果、この問題についての全党の意志は統一され発展の方向は明らかとなつた。……この論文は前に発表された「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない。」に続くものであり、これを基礎にしたものである……」(証第八十号の一の第一頁)と主張して居り該論文が何時何処で何人によつて作成されたものであるかは本件立証において具体的に確認し難いけれども、その内容は前同様前記新綱領の具体的実践方針として且つ証第八十号の二記載前記論文の続編としてその軍事問題を論じたものであることは明らかである。

更に本件「山旅案内」の第五十頁から第五十九頁に亘る解放綱領の部分(判示第四の(四)の部分)は押収にかかる「ちから」なる表題が附され第十回県党会議の決定なるものを内容とする小冊子(証第七十二号、第七十九号、第八十三号)の第二十五頁から第三十四頁にわたつて記載されている「解放綱領」と標題のある部分とはその内容がほとんど全く同一であることがわかる。この小冊子も本件立証においては何時何処で何人によつて作成されたものであるか具体的に確認し難く同意のないこの文書のその記載内容からその記載の通り昭和二十七年四月、日本共産党岐阜県第十回県党会議において解放綱領が決定せられた事実を検察官主張のごとく真実なりと認定することは刑事訴訟法所定の証拠法上できないけれども、かゝる第十回県党会議の内容を伝えむとする小冊子の内容が本件「山旅案内」と右のごとき内容上の一致をもつことは注目すべきである。

以上前記記載及び認定の如き内容をもつ「山旅案内」は日本共産党が第五回全国協議会において採択されたものとして当時世に発表した日本共産党当面の要求―新綱領―をその内容とし、それに基いて軍事組織を持つ民族解放民主統一戦線による武力革命方式の具体的準則実践指示を主張しているものであり、当時他に存在した右新綱領にもとづく軍事方針文書と同系列の内容を持ち、その実践を呼びかけていることが明らかである。

刑法第七十七条に所謂朝憲を紊乱するとは我国家の憲法所定の政治的基本組織を不法に変革破壊することを言い政府の顛覆、邦土の僣窃はその例示的規定と解すべきものであり、政府の顛覆とは個個の内閣の更迭をいうのではなく、行政組織の中枢たる内閣制度を不法に破壊することを指称し、邦土の僣窃とは、我が国家の領土に対する統治権を排除侵犯する不法なる権力の行使を意味するものと解すべく、内乱罪とは、かゝる所為実現の目的を以てなされる少くも一地方の安寧秩序をみだすに足る多衆者の暴行脅迫等破壊力の行使即ち暴動を謂うものと解すべきである。

(一)  山旅案内が主張する武力革命はマルクス・レーニン主義の階級的世界観、階級斗争理論の上に立つている。(判示第四の三の(7)(15)等参照)。そして内容の示すごとく、吉田内閣の吉田個人或は単純に吉田内閣と他の内閣の更迭を企てるだけのものではない。(判示第四の(二)の(2)参照)。現憲法下に存在する当面吉田内閣としてあらわれ代表されている政府、その政治権力機構は弾圧搾取の反動勢力を代表するものであり、それが平和的方法―即ち憲法所定の法治議会主義の合法的方法―で日本共産党を前衛とする革命勢力に地位を譲ると考えることは根本的誤りであり、その方式では依然反動主義者内閣が存続するのみであり、革命勢力が自己の国民政府を作るためには、現在の内閣制度等政治の基本組織制度を武力を以つて覆滅撤廃し、その上に新たに樹立すべきものと規定している。(判示第四の(二)の(4)(三)の(4)等参照)。而もそれを目指す革命戦の所謂遊撃戦の段階においても国家権力組織に対する武力的攻撃の反覆累積のうちに国家権力の地域的支配を麻痺させその支配をくつがえし、そこに地域的な革命勢力の権力を確立して行くことを示している。

(二)  而も山旅案内が第十三頁から第四十九頁にわたり詳述し(判示第四の(三)参照)ている軍事組織その軍事行動、戦術、戦略なるものは、全国或は少くも一地方の安寧秩序を乱すに足る、多衆の結合による武力の行使であることは明らかである。

(三)  山旅案内はまさに革命勢力の結集、軍事組織の初歩的結成、最小限の武装の準備と行動にとりかかりつつ漸次右の如き性格内容の武力革命の実行にいでることが日本の現状(当時の)において必要であり、且つ正当なものであることを、その共産主議理論の展開による前述の如き政治分析に基く結論に立つて主張していることも亦その内容から明らかである。

即ち本件「山旅案内」なる文書は右の如きその内容からして、その内容が架空、空想的なもの或は抽象的論述の域にとどまる程度のものではなく刑法第七十七条の内乱罪の実行の正当性、必要性を主張している文書であると認定することができる。

第五、本件文書「山旅案内」の内容に対する被告人等の認識の存否、及び被告人等における内乱罪(刑法第七十七条の罪)を実行させる目的の存否について。

被告人等が本件文書「山旅案内」を頒布した関係事実、及び「山旅案内」が内乱罪実行の正当性及び必要性を主張した具体的内容をもつ実践的指針たる性格の文書である事実は前記認定のごとくであるが、更に破防法第三十八条第二項第二号所定の目的の存否、及び、文書内容の認識の存否が問題となる。被告人等は当審において終始本件事実関係については黙秘し且つ供述を拒否している。捜査段階においても同様であつたと考えられ、被告人等の供述書類は何等提出されなかつた。

破防法第三十八条第二項第二号所定の「内乱の罪を実行させる目的」とは前述のごとく解すべき刑法第七十七条の内乱罪を該当文書の被頒布者をして実行させむとする目的である。かかる目的をもつてその実行の正当性又は必要性を主張した文書の頒布行為がなされるが故に先に述べた如くその宣伝流説の表現行為は内乱罪を志向する意識された広義の意味の準備行為たる性格を帯有してくるのである。検察官が同法所定の行為が、内乱罪実行の意識的基盤を形成して、多数人を内乱罪の実行に駆り立てるように仕向ける危険性を有し、内乱罪の実行に強い実践的な影響力を持つ行為と解すべき旨主張するのは前記趣旨に解する限りに於ては首肯できる。即ちそれは文字通り「内乱罪を実行させるための頒布等の行為」であらねばならない。それ故「内乱罪実行の正当、必要の主張を認識、理解、或は紹介する単純なる頒布等の行為」或は頒布等の行為に性質上必然的に随伴する「該当文書内容の主張に賛成、共鳴を求めむとする意図に止まる行為」の程度は、前敍の内乱の罪を実行させる目的にいでた頒布行為の範疇に入るべきものでないことは明らかである。殊に言論等表現行為は本来その表現内容に対する理解共鳴を求めることを本質とし理解共鳴を求めむとする思想の発表行為にほかならないのであるから、文書内容への認識理解賛成、共鳴を求めむとする程度の右のごとき行為―仮に検察官使用の用語によれば「意識的基盤を形成せんとする」意図の頒布行為―をも、同条所定の内乱の罪を実行させる目的にいでた頒布行為の範疇に入れるならば、該所定の「内乱の罪を実行させる目的」の要件は空文に帰し、法が特に同目的を要件として規定した趣旨に全く背反することは明らかであると謂わねばならない。而して同条所定の所謂「内乱の罪を実行させる」とは前にも説示したように刑法第七十七条の構成要件の示すごとき政府顛覆、邦土僣窃等我が国の憲法所定の政治的基本組織の不法なる変革を目的とする直接的暴動を実行させることである。かかる暴動に参加せしめ、その構成員たらしめることである。本件文書山旅案内が主張する前記武力革命団式に沿つて考えれば、その武力軍事組織に参加せしめて、所謂防禦戦段階においては地域的革命権力の確立等のための暴動、攻撃戦の段階においては終局的に政府を顛覆せしめるための暴動を実行させることである。破防法第三十八条第二項第二号所定の目的は、刑法第七十七条該当のかかる実行行為そのものを行わしめることを内容とする目的であり、その定めるところの頒布行為はかゝる目的のもとになされる頒布行為而も被頒布者の単なる認識、理解、共鳴等評価、判断の域にとゞまる思想的宣伝効果を越えて、それを実行させることを目的としてなされる行為であるが故に、内乱罪実現を志向する広義の準備行為たる性格を帯有する特殊限定された言論等表現の行為であり、又かゝる性格を持つ言論等表現の行為であるべきが故に、その目的内容となる内乱罪の実行は架空、空想的、非現実的のものであつてはならず、実践的具体性をもつものでなければならない。しかし、その内乱罪が現在間もなく何時何処で如何程の人数をもつて、如何なる武器を用い如何に周到綿密な順序と方法によつて決行されるからということの完全に分明確定した具体性までも必要とするものではなく、現在又は近い現実的将来において出来得る限り速かにわが国内全域又は相当広汎な地域に亘つて相当多数の人をして、例えば本件山旅案内に記載されているような具体的方法で内乱罪を実践せしめようとするごとき、濃厚な現実的実践性を持ち、時期いたれば確定した具体性を持つに至り得べき実行を内容とする場合も含まれるものと解する。何故かならば、かかる内容をもつ目的を以てなされる該当文書の頒布行為といえども、その行為がなされる際の具体的情勢の如何によつては、先に述べた如き言論等表現の自由、その自律性の支配に委ねらるべき限度を越えて国家の基本的政治組織、秩序に対する明らかな差迫つた危険を及ぼすことの予見される場合が認められ得るからである。即ち前述した言論等表現の自由の濫用制限のために存する必要最小限度の原則に触れる場合が存し得るからである。

検察官は冒頭陳述において被告人等は本件山旅案内の内容が内乱の罪の実行の正当性及び必要性を主張したものであることを認識していた事実が存するのみならず、被告人等の本件頒布行為が内乱の罪を実行させる目的に出でたものであると認められる事実として、

(1)  本件当時我国に武力革命方針を執る非公然の全国的組織が存在し右武力革命に基く軍事活動が全国各地に行われ、この組織は日本共産党と密接不可分の関係にあつた事実、

(2)  本件当時岐阜県下においても武力革命方針を執る全国組織の下部組織があり、日本共産党岐阜県委員会も右下部組織と密接不可分の関係があり、その武力革命方針に同調していた事実、

(3)  被告人等は日本共産党岐阜県委員会の所属党員乃至はその同調者と認められ、右武力革命方針に従つていたと認められる事実、

(4)  被告人等の本件頒布行為は、右武力革命方針を宣伝浸透させて広く武力革命意識を醸成させることにより、武力革命実現の意識的基盤を形成させようとしたものである事実

が存すると主張し更に論告においては、右意識を形成せしめようとしたばかりでなく、これにより大衆を慫慂して当面直ちに日本共産党を支持して武装斗争に参加せしめると共に、出来得る限り速かに大衆をして同党指導の下に内乱罪を実行するに至らしめようと意図していたことも否定し得ないと主張する。

右(4)の被告人等の本件頒布行為が武力革命方針を宣伝浸透させ、広く武力革命意識を醸成させることにより武力革命実現の意識的基盤を形成させようとしたものであるとの主張が、本件「山旅案内」記載の武力の革命方針を宣伝流説してその主張内容への理解共鳴等を得ようとした意図のものであるとの趣旨であるならば、かゝる意図の頒布行為を以て直ちに、内乱の罪を実行させる目的を以て本件山旅案内の頒布行為がなされたものと解し難いことは既に説示した通りである。

(一)  日本共産党が当時第五回全国協議会において採択されたものとして世に発表した日本共産党当面の要求―新しい綱領(証第六十九号)、及び日本共産党発行紙「アカハタ」の一九五〇年(昭和二十五年)一月十三日号(証第九十九号はその写真)が、コミンフオルム機関紙「恒久平和と人民民主主義のために」一九五〇年第一号に載つたものとして、「オブザーヴア記日本の情勢について」と題する野坂参三の平和革命理論を非難批判した趣旨の論評記事及び一九五〇年一月十二日付日本共産党中央委員会政治局名義の「日本の情勢について」に関する所感と題する論説を登載発表している事実、

同「アカハタ」の一九五〇年(昭和二十五年)一月一九日号(証第百号はその写真)が昭和二十五年一月十七日付「北京人民日報」がかかげた社説として「日本人民解放の道北京人民日報論ず」と題し、野坂参三の平和革命理論を非難批判し、革命の正道に進むべき趣旨の論評記事を掲載発表している事実、

同「アカハタ」一九五〇年(昭和二十五年)二月六日号(証第百一号はその写真)が、日本共産党政治局員野坂参三名義の「私の自己批判」と題し、占領下においても主として議会を通じて人民政権の樹立が可能であるという結論は今日の情勢からみて原則的に誤つて居り、私の理論は右翼日和見主義的傾向をもつていた、私の誤りを理論的並びに実践活動の中でもつと徹底的に清算する趣旨の論説を掲載発表している事実、

同「アカハタ」一九五二年(昭和二十七年)七月十五日号(証第百二号の一、二はその写真)が「恒久平和と人民民主主義のために」紙上にのつた徳田日本共産党書記長の同年七月十五日日本共産党創立三十周年記念の記念論文として、「日本国民の独立、平和と自由のために」と題して、日本共産党の戦後の活動方針、その成果、及び国際批判に触れ、新綱領の意義はきたるべき日本の革命の性格を従属国における革命即ち民族解放民主革命と定義したところにあり、共産党の新綱領はしだいに全人民の綱領になつてきていると新綱領の実践に関する論述をすすめている趣旨の論文を掲載発表している事実、

及び「アカハタ」同号に、日本共産党中央指導部名義で、当面の斗争の重点―党創立三十周年記念日にさいして―と題し「……日本共産党は多くの他国兄弟党とおなじように、マルクス・レーニン・スターリンの党にふさわしいプロレタリヤ科学をもつて理論的に武装している。近年には大中国革命の指導者毛沢東の東洋国民に適用されたマルクス理論にもとずく貴重な経験と理論がとりいれられ、政治、文化、芸術だけでなく、科学、軍事にまで敵を理論的に圧倒し、国民に偉大な影響をあたえている。そのもつともよい例は一九五一年夏だされた新綱領である。これは日本労働者階級の革命斗争の諸経験とマルクス・レーニン主義のたくみな結合であり、日本民族解放、民主革命の遂行を指示する炬火である。日本共産党が国民のまえに提示し行動と実現を約束した革命への国民的契約書である。新綱領の採用以後、わが党の行動にも、国民の行動にも、巨大な発展があらわれた。……新綱領の指示する方向において、国民統一のため、愛国的民主的国民政治戦線の統一のため政治的展開をしなければならない。全党の努力と組織を選挙のために集中することが現下の急務である。全党をあげて現下の情勢を把握し、選挙戦における国民統一の政治的意義をつかみ、この環をたぐつて、米日反動勢力の陰謀を粉砕、わが党の勢力と組織を伸長させるとともに、全民主勢力の発展と結合に力をそそぐことが刻下の急務である。選挙斗争を軽視することは、現下の条件において階級的、国民的うらぎりであり、それがいかに愛国的平和的外貌をもとうとも……利己的な英雄主義にすぎない。それは全党の発展と国民の危機をすくうために役立つのではなく、その反対に役立ち、敵に武器をあたえ、味方を分裂させ、わが党を孤立させるところのトロツキストの役割をするにすぎない。ブルジヨア・ジヤーナリズムが火焔ビン部隊の行動をなかば英雄的にほめ、煽動する意図は、マフイー・システムの一環につながる役割をしているからである。……」等々内容の論説を掲載発表している事実

日本共産党中央機関誌前衛一九五二年八月号(証第九十一号)が内山ひろし名義の「暴力と戦争の政府を倒し平和政府の実現へ―当面する選挙斗争の中心任務―」と題しその結語に「……したがつて戦争の政府を倒し平和の政府、民族解放連立政府をうちたてることは、単に議会的方法や、平和的方法ではできない。新綱領の示しているとおり、革命的な斗争で斗いとる以外にはない。売国自由党の破防法政府によるあらゆる弾圧をはねのけ、選挙の自由を斗いとるなかで、平和の政府を実力でうちたてるためのあらゆる準備と行動を、全国民的規模で発展させることに、当面の選挙斗争の第二の重要な任務がある」旨の論文を掲載発表している事実

同前衛一九五二年九月号(証第九十二号)が、安達友喜名義の「選挙斗争の勝利は平和擁護と民族解放の巨歩」と題し「来るべき総選挙には新綱領実現に務むべく、統一戦線は国民の団結による合法的斗争の最大限の運用とその拡大と結びつかなくしては不可能である」等々の趣旨の論文、第一回東京都委員会宣伝活動家会議報告名義で「宣伝煽動活動の発展のために」と題する論文(その中には冒頭に「新綱領」を国民の中へ。地方、地域、職場の各種綱領えの具体化とこの綱領を中心とする全党の約一ヶ年にわたる斗争によつて「新綱領」はいまや、たたかう国民みずからのものえと発展しつつある……の記載及び第七十頁には、新綱領、書記長パンフの徹底的な普及。われわれはすべての斗いを「戦争反対、民族独立のため」に斗う斗争に発展させねばならない。そのためには斗う大衆の意識をそこまで高めること、戦略と戦術、民族解放民主統一戦線と国民総武装の思想を自覚させる努力が肝心なのである。いいかえれば、新綱領のもとに斗わせることである。それには新綱領と書記長の論文を大量的に国民のなかえ持ち込むことが、目の前至急の活動である……の記載がある。)及び「新綱領を具体化するたたかい」と題する記事を掲載発表している事実。

以上によれば(勿論以上の各文書はいずれも日本共産党発行の文書と認められるが、被告人、弁護人等の同意がないから、その記載内容中の経験事実の記載に関してはそれを採つて、直ちにその事実の存在、真否判断の証拠にすることが、現行刑事訴訟法所定の証拠法上できないことは明らかである。このことは以下に触れる、検察官提出にかかる軍事文書と称せられる一連の文書に関しても同断である)日本共産党中央は、当時第五回全国協議会において採択されたものとして世に発表した日本共産党当面の要求―新しい綱領を本件当時においても党の綱領活動指針としてかかげその宣伝普及それに沿う党活動の充実大衆的な政治斗争の発展強化に務める動きを示していたことが認められるが、一方検察官提出にかかる右各日本共産党発行名義の文書中には前顕球根栽培法或は本件山旅案内中に見られるような軍事組織、軍事活動を指示主張するごとき記載のほとんど認められないことは注目を要する。

(二)  尚検察官は、証人、元日本共産党札幌委員会常任委員、委員長代理佐藤直道の

「日本共産党では昭和二十六年二月中頃第四回全国協議会を開催し、武装蜂起しなければ日本の独立は出来ない、武装蜂起するとしても従来のやり方では壊滅するので非合法組織をつくり連絡指導せねば駄目だと言うことが決定せられ、札幌委員会も右決定に従い直ちに非合法組織のビユーロー組織をつくつた。従つて活動も合法面より非合法面に切替えられ、合法面の形は残すが、実際はビユーローが指導するということになつた。昭和二十六年八月頃札幌ビユーローに対し北海道地方委員会から「日本共産党当面の要求」即ち新綱領を流して来てこの新綱領は同年十月初頃の第五回全国協議会において修正されないで採択せられた。その際「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」という軍事方針が決定せられ、私もビユーローの委員長より届けられた。昭和二十六年十一月から十二月にかけて札幌ビユーローの中に軍事委員会、中核自衛隊が作られ、軍事委員長はビユーロー員が就任した。之等の組織は思想堅固な者によつて組織せられ何時でも武装できる様に準備した。私も当時手製の手榴弾三個を預つたことがあるし、札幌の中核自衛隊はピストルの発射訓練、手榴弾の爆発実験をやつたことをその隊員より聞いた。昭和二十六年夏頃には北海道の他の委員会においても札幌委員会と同様ビユーローの非合法組織ができていたと思う。具体的にはわからないが、各委員会の代表のいろいろ申述べる中でそういうものがあると思つた丈である。「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」の文書は五千部を二回作り流した」旨の証言

証人三帰省吾の証言及び同人に対する騒擾等被告事件の大阪地方裁判所第三十二回公判調書謄本中の同人の供述記載中「日本共産党には、斗争の機関として中央、地方、府県地区にそれぞれビユーローと称する委員会があり、具体的には、大阪には大阪府ビユーローとその下に北地区、東地区、南地区の各ビユーローがあり、府ビユーローの上位機関として西日本ビユーローがあつた。

そして大阪府ビユーローには、府委員長の外に府軍事委員長があり、その直接握つているのが軍事部で、それは科学屋機械屋、その他の技術屋等々種々な専門技術屋七名で構成されていた。軍事部の仕事と言うのは、武器の研究、製作に関することであるが、中央西日本、大阪府、それぞれ軍事部の掌握下に科学技術部があり、そこで武器の研究、試作実験をすることになつていた。その中で中央の科学技術部は相当にエキスパートを持つていたようで「栄養分析」その他二回程火炎ビン等武器製法に関する印刷物が出された。自分が大阪府軍事部責任者となつたのは、昭和二十七年三月であつたが、翌四月には関東の多摩地方で行われた党中央軍事部主催の全国軍事部員教育に参加し火炎ビン、テルミツトの実験や、ピストルの試射をした。自分が大阪府軍事部責任者となつた当時、同部の科学技術部としては塩素酸カリ、砂糖、濃硫酸で爆発物のできることは試作実験済で、更に手榴弾を作りたいという意向を持つていた。党中央から発行された球根栽培法その他いろいろなパンフレツトの中、「軍事方針について」が出た当時から、武器の問題、武装の問題が党内で相当に論議され、ピストルは警官から大衆動員のどさくさの中で奪つて取上げそして武器をたくわえるんだということが一つの定石のようになつていた」趣旨、及び、吹田事件に関する供述記載

証人工藤通夫の証言中同人が昭和二十七年一月頃再入党し日本共産党秋田県委員会北部地区委員会小坂細胞の構成員となり活動した当時、中核自衛隊組織があつたことその組織、活動等の関係、昭和二十八年五月十七日頃埼玉県に行つて活動した際の埼玉県下の軍事組織の存在、構成、その活動等に関する供述

塩沢福一の検察官に対する供述調書謄本中「私は昭和二十三年十月二十一日日本共産党に入党し、愛知県東三地区委員会で党活動に従事したが昭和二十七年一月十日党から活動停止処分を受け、同年八月一日党から除名された。昭和二十七年六月三十日頃豊川公共職業安定所前の道路上で小坂井の氏名不詳の男より日共東三地区の非合法組織である軍事委員会より出された豊橋職安事件の被告人奪還と豊橋税務署等権力機関に対し実力行使をしろと言うY指令を受取つた。そうして七月二日夜私外十一名が豊橋税務署襲撃を相談し、同日夜豊橋税務署に火焔瓶を投込んで逃走した」旨の供述記載及び

1 愛知県東春日井郡守山町川瀬甲子郎方において押収された速報No.7一一・三〇「五全協軍事方針の実践のために」と題する文書の写真(証第九十七号)

2 岐阜県稲葉郡那加町丹羽ゆり方富田嘉彦の居室、岐阜市本荘三里、解放救援会岐阜県本部事務所において夫々押収された「当面の戦術と組織問題について」と題する文書(証第七十七号、証第八十号の五)

3 前記富田嘉彦居室において押収された「祖国のために斗う人々―滋賀日野事件の真相」と題する文書(証第八十一号)

4 岐阜県大野郡丹生川村被告人古滝富栄方において押収されたリーダース・ダイジエスト八月号表紙付の文書(証第六十二号)中にある速報No.13一九五二・二・二五「軍事活動発展のために」と題する論文速報号外「労働運動の基本課題」と題する論文、

5 前記被告人古滝方で押収された子供のしつけ―軍事活動月報第五号―と題する文書(証第六十号)

6 岐阜県揖斐郡揖斐町上新町川合国夫方で押収された子供のしつけ、その五―月報第五号―と題する文書(証第七十一号)

7 岐阜県益田郡下呂町平栗梅子方において押収された「党創立三十周年記念斗争の意義について」と題する文書(証第四十一号)中の、財政活動の当面の任務―全国財政部長会議の決定(一九五二・五・一五)―と題する論文

8 前記富田嘉彦居室より押収された水害対策―党建設者第二巻第十二号通巻二七号一九五二年六月十五日発行―と題する文書(証第八十二号)

9 前記平栗梅子方、被告人古滝富栄方、及び岐阜県大野郡丹生川村森本しげ子方においてそれぞれ押収されたあすの装い―党建設者第二巻十八号通巻三三号一九五二年九月一五日発行―と題する文書(証第三十九号、第六十三号、第六十四号)中の「山林解放斗争の前進のために」と題する論文

10 愛知県東春日井郡守山町酒井博方において押収された「一九五二・八・一二・書記長論文にこたえて」と題する文書の写真(証第九十五号)

11 北海道白糠郡白糠町島村勝方において押収された国民評論四一号(一九五二年八月一日発行)と題する文書の写真(証第九十三号)中の「フアシズム下の総選挙斗争と日本の革命」と題する論文

12 名古屋市北区上飯田町一の三二、生倉公平方において押収された国民評論No.14一九五二年十一月一日号の写真(証第九十六号)中の「総選挙斗争を終つて―その教訓を学べ―」と題する論文

岐阜県益田郡下呂町中川佳也方において押収された「総選挙斗争を終つて―その教訓に学べ―一九五二・一〇・一〇」と題する文書(証第四十四号)

13 岡谷市小口区手塚幸彦方において押収された第二二回日本共産党中央委員会総会決定集と題する文書の写真(証第九十八号)中の「三、党内教育の方針」と題する論文

14 名古屋市中区伏見町岩原靖幸方において押収された「武装斗争の思想と行動の統一のために」と題する文書の写真(証第八十八号)

15 長野県東築摩郡里山辺村ゆたかや旅館において李寛承より押収された「全国会議の結語」と題する文書の写真(証第九十号の二、三)

16 東京都文京区柳町東京管理所敷地内において立岩寧から押収された「武装問題の成果と欠陥について(軍事報告)」と題する文書の写真(証第八十五号)

17 東京都北区稲付西町李享洙方において押収された「一九五三・三・一五・Y組織活動を強化せよ」と題する文書の写真(証第八十六号)

18 前記李享洙方において押収された「中核No.22一九五三・五・五」と題する文書の写真(証第八十七号)中の「中核自衛隊統一司令部の任務について」と題する論文

19 静岡市大宮町二丁目静岡大学正門道路上において永田末男より押収された「中核No.32一九五三・一〇・五」と題する文書の写真(証第九十四号)中の「補給活動の前進のために!」と題する論文及び同文書中の「帰つてから大胆素直に隊員カクトクの確信がついた○○県幹部教育の報告○○隊長」と題する記事

これに日本共産党の新綱領に関する前顕各文書、前顕球根栽培法(証第八十号の一、二)、ちから(証第七十二号、第七十九号、第八十三号)を綜合すれば本件当時及びこれに前後する時期においてわが国には政党の形態をもつ非公然な全国組織が結成され、しかもこの組織が武力革命方式に基く軍事方針を採用し、非公然、且つ隠密裡に軍事方針及び「中核自衛隊の組織と戦術」に指示されているところを強力に実践しようと務めると共に、日本共産党が右組織と密接不可分の関係に立つて武力革命方式に基く軍事方針に同調し、右組織の軍事活動に協力していた事実が認められると主張する。

よつてこの点につき審案するに右各証言及び供述記載の中には、日本共産党の各関係下部組織にあつて活動していた際の直接経験事実のほかに伝聞或は推測、中には解釈に近い供述の存することが、各証言供述を仔細に検討すれば明らかであり、且つ各証人とも自己の関係した各地方組織以外の日本共産党下部組織或はその関連組織のことは知らない、関係をもつたこともない、旨証言し又自己の関係する下部組織とその上部組織との関係についても認識は抽象的にとゞまり、且つ各証人供述者等の活動地位も組織及びその活動の全貌を握み得るようなものではなかつたことが認められることを考慮せねばならない。又右各文書についても、その内容が日本共産党の新綱領の実践としての軍事組織、軍事活動の結成強化、実践を主張し指示し慫慂する一連の相共通関連した内容を持ち、本件山旅案内の記載中の「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」と相通ずる形列の文書であることが認められるが、先に述べたごとく、被告人等の同意なく且つ何時何処で何人によつて作成されたものであるか等その出所も具体的明確を欠く右各文書の記載中の経験的事実内容をもつて、直ちにその事実の真否の判断の証拠には採用し難いことを考慮しなければならない。而も、かゝる文書の発行出所、頒布等の具体的事実関係についての客観的立証の乏しい本件において、その文書の存在及びその主張する各内容の比照考察のみから、内容の一致関係等に基き、その背後にあるという客観的事実関係を推断確定するという方法は一般的に採証原理から考えても飛躍、誤謬に陥り易いことを考慮せねばならぬ。殊に右各文書は、政治活動等に関する、宣伝文書たる性格をもつものであり、かかる文書一般の通有性として、客観事実を離れた修飾、誇張、呼号等不正確さをもつことも考うべきである。以上の点を考慮しつつ、右各証拠を検討すれば、検察官提出のかゝる程度の証拠方法を以て、検察官主張のごとき日本共産党と密接不可分の関係に立ち武力革命方式に基く軍事方針を採用した政党の形態をもつ非公然な全国組織の存在及びその非公然且つ隠密裡の活動等のごとき事実は、或程度の推測想像は動かし得るが、誤りなくこれを確認することはできない。又日本共産党が新綱領の採択と共に合法活動の裏に、軍事的革命組織、軍事活動を推進しつゝあつたという如き事実も、マルクス・レーニン主義を奉じ労働者階級の前衛たる革命政党を以て任ずる日本共産党が、平和革命方式を放棄した新綱領を採択発表しその実践を推進しようとしている事実前記各証人供述者等の関係した同党の下部組織には党員或はその同調者等により党の方針に沿うものとして軍事委員会、中核自衛隊等の名称をもつ或組織活動が生じている事実等から、或程度推測し得ないことはないけれども、これ又その実体を誤りなく確認し能う立証はない。更にマルクス・レーニン主義の立場からは革命成功の条件としてレーニンが革命情勢について述べた古典的ともいうべき原則が説かれている。即ち革命が成功するためには客観情勢として一、一般大衆の貧困化が極度に激化し、大衆が已むにやまれず蹶起するという条件があること二、一般大衆(被支配階級)が支配者階級の政治に見切りをつけ、これを変えねばならないという意思を持つと同時に支配者階級が今までのやり方では政治をつづけて行けないという政治の危機を感ずる事態が生ずること、三、以上と関連して下層階級、勤労者階級が果敢積極的な大衆行動に出る情勢にあること、及び主体的条件として、こうした客観的情勢を背景としてその中で組織された具体的積極的な行動所謂革命的な行動を起す強い組織をもつた勤労大衆が存することが必要であるというのである。(証人岡倉古志郎、同平野義太郎の各証言参照)。この原則の示すごとき所謂革命情勢が本件当時又その前後に存したとすれば、それはことに客観的情勢は我が国民一般にひしひしと感ぜられたことであろう。証人岡倉古志郎、同平野義太郎、同井上清は右のごとき革命情勢は当時我が国には存しなかつた旨証言するし、当時我が国が少くとも右原則が客観情勢としてあげるごとき、一触即発革命を呼ぶ失政貧困の極度にあつたと認め難いことは公知であると考える。これに反する立証はない。尤も日本共産党がマルクス・レーニン主義の立場からする当時の我が国の現実分析を誤る等のこともあり得ると考えられるが、しかし前顕各軍事関係文書と総選挙斗争政治斗争を力説する前顕アカハタ等を比照すると、武力革命の時期近かしとして具体的な軍事活動、軍事組織を主張する同党員或は同党同調者等の意図主張がたゞちに同党全体、同党中央一致又は同党首脳部の意図主張であつたか否かにも疑問がないわけではないのである。かゝる点の客観的解明は、検察官申請の前記各証言、供述(佐藤、三帰、工藤、塩沢)及び各文書程度の証拠を以てしては結局充分に為し得ないと考える。

(三)(1) 証人佐藤彰の証言により岐阜県揖斐郡揖斐町上新町川合国夫方において昭和二十七年十月二十五日押収されたと認められる「矢文」を発行するに当つてと題し矢文七月号No.一四七、発行七月六日の奥書ある次の趣旨内容の謄写版刷り小文書一部(証第七十号)の存在、

「軍事問題がその時々に地区とりわけ細胞に蓄積されず細胞活動の中で軍事問題が発展させられることが弱かつたことは誤りである。この責任は細胞でなく指導機関とくに○軍事委員会にある。○軍委は一つ一つの斗いの軍事的、政治的評価をそれぞれの会議でやつて来たがこれでは不充分であり、月々の総括と発展の方向、軍委の任務、活動の重点、経験を「矢文」で明らかにし一ヶ月毎の活動指針としてその実践を点検する尺度となるよう奉仕したい。今や国民は労働者農民を中心に武装し、行動しつつあるし、亦これ以外に民族解放民主統一戦線を強化し、勝利することは出来ない。この意味から「矢文」を発行する。地区細胞で討議し、より発展させて戴きたい。……県下到る所で労働者農民が中心となり、党の政策を中心に武装し行動し、政治勢力の変革を意識的に行うようになつて来たこと……以上の情勢の特徴点は明らかに民族解放統一地域確立の条件が成熟し県民は武装行動を開始したことを意味すると同時に我々に次の諸点を教える。これはまた当面直ちに県民に応える県党の方針である。……軍事委員会の任務は武装ゼネストを中心とした大衆の国会即時解散、吉田売国政府打倒の武装行動(国民武装)を強化し愛国戦線(統一戦線)を飛躍的に発展させることにある。従つて当面直ちに軍事方針を大量に労働者農民を中心に全大衆の中え。売国自由党政府打倒、国会即時解散のために労働者を中心に農民その他大衆に武装し行動する以外勝利出来ないしそうすればこそ必ず勝利することが出来ると言う確信とその方向を示す軍事方針を大量に入れ、その討議を必ず組織すること、それがためには○党会議の決定を細胞で討議する中で、今から直ちに配布と討議をどのようにするかを細胞で討議し、その計画を何時軍事方針が(今回は極めて大量である)来ても直ちに行えるようにしておくことが重要である。細胞の全員がその討議を指導出来るようにしておくことは勿論である。新綱領、軍事方針、中核自衛隊の組織と戦術、県の解放綱領、入党アツピールが多少修正の上、問答集となつて一冊のパンフレツトとなつて売価二十円、そのうち十円は地区の責任に於て上納し、十円は地区軍委の責任で管理し、直ちに増刷すること(絶対に流用不可)これにともなう諸カンパは勿論大いにやるべきであるが、そのために軍事方針を用いるのでは断じてない。このことが労働者の武装ゼネストを保障し地域全大衆の武装行動を飛躍的に発展させる保障となるであろう。……今こそ県下二万人の中自隊、遊撃隊を組織すること、……われわれはこの大衆を基礎とし、甲紙、細胞新聞、軍事方針による中自隊の組織化を今こそ急がねばならない。……組織に当つては三人を一分隊、それが三つで一小隊それが三つで一中隊とする県の中自隊組織の原則を貫くこと。勿論中自隊は党の雇兵でなく、細胞がこれを道具のように引き廻すのは誤りでそのようなものを作ろうとしたのでは出来ない。中自隊は統一戦線の軍事組織である。従つて統一戦線の下部組織、職場のスト委に代表を出し、その決定により動くものである。これは行動委(地域も同じである。しかしこのことは党の(政治委員)の政治的軍事的指導の強化とは矛盾しない。……我々は武器の大衆、国民の手による生産、敵からの奪取の方向を堅持し決戦武器を蓄積することを急がねばならない。……軍事技術者としての旧将校集団の組織化について○軍委は、遊撃隊の組織化と大衆武装行動等の現実的な問題の中で軍事技術者(将校集団)の組織の必要から工作し、労働者旧将校を中心に現在一名入党これから五名程度の組織化は可能であることが語られ、定期的に連絡し、工作を進める方針で……この時にあたりなお更この点は重要である。……現在地区軍委は大部分組織されているが、その時々の具体的軍事任務を明らかにし、方針、戦術、組織を機敏におこのう様にはなつていない今後は指導部の方針を速かに実践するために、その都度の任務を明らかにし、方針、戦術、組織を細胞の軍事責任者に示し、細胞の討議にうつさねばならないし、進んで地区軍事責任者は指導部に問題を出し或はその方針の中での任務は何かを明らかにする様にすること。……以上が七月度の実践目標である。地区及び軍委で討議し細胞の軍事責任者に徹底することは勿論細胞活動の軍事的援助となる様にされたい」旨

(2) 前記認定のごとく(判示第四)当時日本共産党岐阜県委員会委員と推認される松尾孝和が、熊崎印刷株式会社に本件山旅案内二万部を印刷発注し印刷済の二万部が昭和二十七年七月中旬頃に同印刷株式会社から引渡されて、他に発送された事実而して本件山旅案内は前記認定のごとき(判示第四)内容のもので同党岐阜県委員会発行名義であり、右矢文を発行するに当つて―と題する文書中大量発送を予告している、「新綱領、軍事方針、中核自衛隊の組織と戦術、県の解放綱領、入党アツピールが多少修正の上、問答集となつて一冊のパンフレツトとなつて売価二十円……」の記載は、本件「山旅案内」に照応することが窺われる事実

(3) 証人佐藤彰の証言により前記川合国夫方で昭和二十七年十月二十五日、証人下川慶治郎の証言により岐阜県稲葉郡那加町丹羽ゆり方富田嘉彦の居室で昭和二十八年四月十七日に、及び同所後藤輝夫の居室において同日に、夫々押収されたと認められる「ちから」と題する謄写版刷り同一内容の文書(証第七十二号、第七十九号、第八十三号)の存在。(中に第十回県党会議の決定と題する記載中「……この様な状勢は飛躍的な労働者階級の成長を示し、われわれがこの成長を正しく評価し、三人組、五人組行動委員会及び、革命的なストライキ委員会を職場に確立するよう訴え且つ組織することが必要であり、同時に、それを武装させることが重要になつてきている。このようにして労働者階級を武装させ、武装ゼネストに組織することこそが国民総武装に発展させる基礎である」旨の記載がある)

(4) 証人近藤巖の証言により昭和二十七年七月十五日頃岐阜県益田郡下原村大船渡路上で被告人田口早苗外一名が配つていたものと認められる謄写版刷りビラ(証第七十八号の二)の存在(同ビラには「……全愛国者! 労働者諸君! 一切の斗いは三人組、五人組の武装組織で斗え! 斗いを押え弾圧する売国奴は国民の名で処断せよ全員武装して斗えば必ず勝利出来る。七月十五日武装ゼネストの日三人五人親しい人と話し合い組織をつくつて参加せよ、ピストルには石、竹槍、火炎ビンで!! 鎌あるものは鎌、棒あるものは棒で!! ホウ帯、三角布、消毒薬を用意せよ!! 一切の労働組合は今こそ真剣に国会解散の武装行動隊、宣伝隊、非合法活動、国会解散、一千万円大カンパニヤを考え実践する時だ!! 売国国会即時解散せよ! 売国奴を処断せよ!! 全愛国者決起せよ!! 日本共産党中濃地区委員会」なる記載がある)

(5)  証人伊佐治義郎の証言、岩井三郎、久保田光雅共同作成の鑑定書、萩原義郎作成の鑑定書を綜合すると、昭和二十七年七月十五日岐阜市美江寺町岐阜市公会堂において日本共産党創立三十周年記念集会が開催され、集会終了後、主催者側と考えられる数十名が参加群衆二百名位をリードした恰好で、無届デモ行進がはじまり岐阜市小熊町附近路上で岐阜県公安条例違反として解散検挙に着手した警察官と紛争が生じ集団が散つた後該道路上に人畜に対し傷害を与え得る爆発力を持つた手榴弾様のものが二個遺棄されていた事実

(6)  証人広田充則の証言により岐阜県加茂郡川辺町文元哲方において昭和二十七年十月二十五日押収されたと認められる労農手帳No.1と題する文書八部(証第五十五号)証人松尾公一の証言により岐阜県大野郡丹生川村被告人古滝富栄方において同年十月二十五日押収されたと認められる労農手帳No.1と題する文書三十九部(証第六十一号)証人小林末吉の証言により岐阜市本荘解放救援会岐阜県本部事務所において、同年十月二十五日押収されたと認められる労農手帳No.1と題する文書三部(証第七十五号)の各存在(右各文書は武器としての石ころ、目つぶし竹槍から、催涙弾火焔ビン、テルミツト弾等々と称する武器類の手製或は簡易な製造法を謄写版刷りにした同一内容の小冊子でまえがきと題する部分に「いまわれわれの祖国日本は外国侵略軍の占領下におかれ、さらに、それにこびへつらう一部の売国分子自由党によつて、すべての日本人の自由はうばわれ、生活はおびやかされ、すべての外国占領者の意図のままに再びアジヤ侵略戦争の足場にされた。日本人はその肉弾にされ使われている。この日本民族の独立を達成し、日本人に真の平和と解放をもたらすものは何か。それは日夜斗いつゞけて来た全愛国民の独立、平和、解放のためのさまざまの斗いを彼等の最後のしかも最大の支柱である武力支配をくつがえすべく、さらに強力なわれわれの武装力で裏づけた実力で、彼等を屈服させる以外にない。しかしそのためには彼等はあまりにも強大であり、近代的科学兵器の粋を集めて武装している。従つてわれわれも、これに対する武装力を、敵の弱点、味方の利点をよくつかんで不断に発展させる努力を怠つてはならない。勿論この場合、その所持する優劣が戦斗の勝敗を左右する決定的要素では断じてないが、武器が優秀であれば、われわれの斗いは有利に展開することが出来る。しかもその時々処々に、われわれの創意にみちに武器を適宜に使用することによつて、敵の近代兵器を圧倒することも可能である。即ち山岳戦に戦車重砲は無力となり、バルチザンに原爆戦は不可能であろう。この意味でわれわれは身近かな石ころ、竹ヤリから、近代的兵器に至るまで不断にその研究と活用の努力をつみかさね、日常の斗いを武器で強力に裏づけるようにしなければならない。従つてここに、全愛国国民に大いに活用されることを期待して労農手帳を発行する。尚、新しい研究、成果がえられたら、すぐお互に知らせあうようにしよう。一部の敵の手に渡すな。」との記載がある)

(7)  証人下川慶治郎の証言により前記後藤輝夫方において昭和二十八年四月十七日に、証人小林末吉の証言により前記解放救援会岐阜県本部事務所において昭和二十七年十月二十五日に夫々押収されたと認められる遊撃戦全般に亘り詳述した内容の「女性三重奏」の表紙付―遊撃戦の基礎戦術一九五一年―と題する謄写版刷り内容同一の文書(証第七十六号、第八十四号)の存在

を綜合すると―尤も右(1)(3)(4)(6)(7)の文書の記載中の経験的事実内容をもつて直ちにその事実の真否の判断の証拠に採用し難いこと及びかゝる文書の内容を検討するに際し考慮すべき点については先に述べたところと同断であるが―日本共産党岐阜県委員会は、その構成員の一致した意思であるか否か迄の具体的事実は明認し難いけれども本件当時及びその前後において日本共産党の新綱領、山旅案内に記載あるごとき軍事組織、軍事活動の方針に同調し、その宣伝普及の活動にいでていたこと及び、果して右委員会の主張か否か明らかではないが、岐阜県下においても少くとも同党員或は同調者と考えられる者の中に、中核自衛隊等軍事組織の結成、その活動を主張し宣伝する動きがあつたことが窺われる。しかし、現実に中核自衛隊等の組織が結成され活動に移つていたかは確認するに足る証拠は乏しく、又右岐阜県委員会或は右記党員等の活動が日本共産党の上部組織といかなる具体的関連の下になされたか否か、岐阜県外の日本共産党組織、或は前記第五の(二)で述べた程度の軍事活動組織と関連を持つていたか否か、更に同党岐阜県委員会の右活動及び右記党員等の活動はいかなる程度、県下同党員或は同調者、又一般県民に滲透していたのか、又、県下同党員或は同調者は、右岐阜県委員会或は右記党員等の活動にどの程度の認識を持つていたのか、例えば、検察官が立証として提出した右(1)(3)(4)(6)(7)等の文書は、仮に右岐阜県委員会或は右記党員等の作成にかかるものとしても(勿論この事実は証拠上明らかではないが)それが、県下の同党員或は同調者にどの様に、又どの程度伝達普及していたか等の具体的な事実は本件立証においては明らかでない。検察官が主張するごとき「日本共産党岐阜県委員会も武力革命方針を執る非公然な全国組織の岐阜県における下部組織と密接不可分の関係にあつて、その武力革命方針に同調し、これを実現せんがためいわゆる軍事組織と軍事活動に積極的参加協力していた」との事実は或程度の推測はできても本件の立証を以ては、右に述べた以上に具体的にその実体、客観的事実を確認することはできない。況んや日本共産党岐阜県委員会が一つの方針に同調したからといつてそこからたゞちに、具体的事実の証明をまたないで、岐阜県下の同党員或は同調者が右委員会の意思を自からの意思とするにいたるというごとき推定の存するものでもない。

(四) 以上判示第五の(一)乃至(三)に述べきたつた事実関係の上に立つて、更に被告人等個々に関する具体的事情を検討して見るに、

本件立証においては被告人等が何時何処で如何なる方法により本件頒布にかゝる山旅案内を入手したか等の入手経路入手事情、被告人等が本件山旅案内を入手するについて他から殊に日本共産党岐阜県委員会関係者等から指令指示等を受けていたか否か等の具体的事情その他本件山旅案内を頒布するにいたつた動機、縁因の具体的事情は不明というほかはない。更に、被告人等自身が前記軍事組織、軍事活動を組織実行していたとか、それに参加していたとか、それと関係がある者であるとかの点も認めることはできない。被告人等が日本共産党党員か或はその同調者として、岐阜県下における同党の活動にある程度の関係をもつていたことは後記のごとくであるがその内容、同党岐阜県委員会との関連等も明瞭ではない。本件においては後記のごとき被告人等の本件頒布行為時の言動の外に、更にかかる頒布行為における被告人等の活動の占める位置、その背後関係の全容を直截明瞭に示す証拠は存しないのである。

(1) 被告人金鐘得について。

一、岐阜地方公安調査局長作成の団規令届出事項の回答についてと題する書面には「被告人金鐘得について届出年月日昭和二十四年十月十五日届出事項日本共産党加茂郡委員会構成員、届出年月日昭和二十五年四月四日届出事項日本共産党中濃地区委員会構成員(脱退)、届出年月日、昭和二十五年四月十三日届出事項日本共産党加茂郡委員会構成員(脱退)」とある。

一、岡田尋の検察官に対する供述調書によれば

「私は昭和二十一年三月から徳島炭鉱鉱業所の事務員として今日に至つている……金本こと金鐘得は昭和二十七年六月八日頃から十月五日迄第二坑で働いていた……平素の行動は深くは知らないが、只金本は同年九月二日三日に亘り組合代表七、八名の者が徳島所長に会い賃上げ要求を交渉に来た時代表者の一人に加はつて居た……」旨及び山旅案内の交付をうけた際の様子につき同年八月二十三日頃昼頃……亜炭の貨車積の状況を見に行つた際―「金本は続いて私の側に来て想い出した様に、あゝ事務所の人にも為になる処もあるから読んで貰おうかと言つて一冊のパンフレツトを私に差出した……金はいくらやなと聞きますと読んで見て為になる処もあるから金は後でもよい志でよいと申して居りました……」旨の記載がある。

一、岡田尋に対する裁判官の証人尋問調書も右と同旨である。

一、平井久夫の検察官に対する供述調書によれば山旅案内の交付を受けた際の情況等につき

「自分は徳島炭鉱のトラツク、乗用車の運転手であるが……自分が車庫の附近に立つていると金本が近ずいて来て持つていた十数冊のうすい本の中から一冊を私に差出してこの本を読んでくれと言い自分は代価を尋ねた様に思うが、金本は読んで見てよかつたら五円でも十円でもよいからくれと言つて代金は貰つても貰わんでもよいと云う態度でそのまゝ行つてしまつた……金本が以前から第二坑の採炭夫であることは知つていたが顔を見れば一口挨拶を交す位の程度であるから、同人の平素のことは一向知らない本年(昭和二十七年)九月上旬頃徳島炭鉱の賃上げ争議の折、相当活躍したのを知るのみである」旨記載がある。

一、生駒信男の検察官に対する供述調書には(伝聞、想像的部分は除く)

「自分は徳島炭鉱の運転手であるが採炭夫の金本が、昭和二十七年八月下旬頃の昼頃工場に居た私の処へきて、運ちやんこれを読んでくれと言つて薄いパンフレツト一冊を呉れた、金銭のことは何もいはなかつた」旨記載がある。

一、多田権一の検察官に対する供述調書には

「自分は徳島炭鉱の雑役夫であるが、金本は労働組合が出来た時に議長となつてメツセージを読んだり昭和二十七年八月頃おやじに賃上げ要求をすると言つて主となつて交渉していたので知つているが、話等はほとんどしたことなく、又私は金本がメツセージを読んだときも内容を聞いていなかつたし組合の集りに出たことがないからこれ以上金本の詳しいことは知らない。同年八月二十二、三日頃の昼頃一坑の東の方の工場で仕事をして居ると後から金本が「多田さん」と呼んで山旅案内と書いた本を一冊くれてどこかへ行つてしまつた」旨記載がある。

一、笹川茂作の検察官に対する供述調書には

「私は徳山炭鉱の採炭夫であるが、昭和二十七年八月二十二、三日の昼頃、私と一緒に昼飯を喰べていた金本がつつと立つて、側の棚の上から、厚さ一寸位の新聞紙の包を出して中から一冊の本をぬき出して、「笹川さんこれを読んで見てくれ」と言つた。私がこれいくらの本かと聞くと「いくらでも志でええ」と言つたので受取つた、それから金は、朝鮮人の梅原と一緒に新聞紙から出した本をもつて「一坑の方へ行つてこよう」と言つて行つた。それから二十分位して戻つてきて、私に「さつきの本見ましたか」と聞いたので、私は「棚の上へ返しておいたよ」といつた、帰つてきた時金は私にくれた本と同じ物を四、五冊持つており私が返した本と一緒に棚の上に乗せたが、二人で持つて来た本の数と配つたのと数が合わん先方でインチキしたかなと話し合つて居た」旨の記載がある。

一、笹川茂作に対する裁判官の証人尋問調書も右と同旨である。

一、籠橋昭一の検察官に対する供述調書には

「自分は徳島炭鉱鉱業所の炭鉱夫であるが、昭和二十七年八月下旬頃の昼炭坑夫の灰谷司と弁当を食べていると金が来て、本を一冊目の前に出し、此の本を読んでくれ資金がないで一円でも二円でも五円でもいいから志があつたら出してくれといつた強いて金を請求する様子もなかつたのでそのまゝ貰つて置いた。金は徳島炭鉱労働組合結成大会の時仮議長をしてメツセージを読んだが内容には相当激烈な文句があつた」旨の記載がある。

一、奥田順治の検察官に対する供述調書には

「自分は徳島炭鉱の自動車運転手であるが、昭和二十七年七月十日頃同炭鉱の労働組合結成大会の際、金は大いに活躍して仮議長となり、吉田政府打倒とか、労働者は武装して立上れと言う風な文句のあるメツセージを読んだ」旨の記載がある。

一、永瀬秋男の検察官に対する供述調書には(伝聞、想像部分を除く)

「何時言つたとの具体的記憶はないが、金が暴力を以て資本家を倒して労働者の天下にする意味のことを言つているのを聞いたことがある」旨の記載がある。

一、証人灰谷司の

「金は何か少し喋つてこういう本を読んで呉れと言つたのでないかと思う。金がどうして山旅案内を呉れたかは深く考もせず不思議に思つた丈である。自分は当時徳島炭鉱の採炭夫であつたが、金のことは良く知らず、他に本をもらつたりしたこともなく、話をしたのも山旅案内をもらつた時が始めてである」旨の証言

一、証人神盛男の

「自分は当時徳島炭坑の労働組合の書記長に選ばれ、金は執行委員であつたが金が共産党員でないかと思つた様な気もするが、政治団体に加入していた等のことは気付かなかつた。昭和二十七年七月上旬頃永川炭鉱附近の道路上で金と共産主義や共産党のことについて話したことがある様な気がする。」旨の証言

一、証人高木昭夫の

「自分は採炭夫として、徳島炭鉱で金等と一緒に働いていたが金が共産党と大体そう思つて居た丈で正確なことは知らない、昭和二十七年十月一日の衆議院議員選挙の投票日に大橋のところで金本(金鐘得の意)梅原が徳田球一のメツセージの入つた島田貞男のビラを配つていた」旨の証言

一、被告人金鐘得方から、祖国防衛、中日本委員会機関紙(証第五十八号)狂犬社会と題するパンフレツト(証第五十九号)の押収された事実(証人桜木健二の証言参照)

を綜合すると被告人金鐘得は嘗て日本共産党届出党員であつた経歴を有し本件頒布行為当時においても少くとも同党の同調者として幾何かの活動のあつたこと、及び本件山旅案内の記載内容についても認識を持つていた事が推認される。しかし同党員或は同調者であるからと言つて又山旅案内の内容に認識を持ち、それを頒布したからといつて、そのことから、直ちに、前述のごとき「内乱の罪を実行させる目的」を以つて頒布行為がなされたものと即断できるものではなく、而も一般の炭鉱勤務者と認められる以上に政党関係、政治的意図、活動が存したとも、被告人金鐘得と特別の関係にあつたとも認められない各被頒布者(而も結果的に見て山旅案内を読まなかつたり興味を示すこともない)に対する、右各証拠の示す程度の情況、言動の下になされた頒布行為から、被告人金鐘得に関して、本件「山旅案内」内容への認識、理解、或は共鳴を得むとする単純なる宣伝頒布の意図を超過する目的―「内乱の罪を実行させる目的」―の存在を推認することはできない。以上本件各証拠につき論述したところによつて、結局被告人金鐘得には、本件山旅案内の頒布行為を「内乱の罪を実行させる目的」を以て為したものであるとの事実を認定することができない。

(2) 被告人斎藤章治について。

一、岐阜地方公安調査局長作成の団規令届出事項の回答についてと題する書面には

「斎藤章治につき届出年月日昭和二十四年十二月二十七日届出事項日本共産党飛騨地区委員会構成員(新加入)」とある。

一、二村鋭次の検察官に対する供述調書には

「自分は農業で上野第二班長をやつている。毎月一回位下呂町役場で班長会議が開かれる。昭和二十七年八月六日頃の午後一時から、下呂町役場で定例の班長会議が開かれ、出席した際、大淵班長として出席していた斎藤章治が、会議の始まる少し前に、同人が自分で持つて来た山旅案内十部足らずを出席班長の前の机の上に頒つていた。斎藤章治はこの山旅案内を取り出して各班長に頒る時「こんな本があるが、良い事が書いてあるから買はんか、実費の三十円にして置くから」と申した。……斎藤章治はソ連から引揚げて来てから共産党の活動をして居られ、前回の下呂町議会議員選挙や同町教育委員の選挙にも共産党として立候補され尚前の衆議院議員選挙には共産党の島田候補を応援して居られた」、旨の記載がある。

一、日下部康登の検察官に対する供述調書には

「自分は農業で農家班長をやつているが昭和二十七年八月六日午後一時から下呂町役場で開かれた農家班長会議の席上、班長の一人斎藤章治が山旅案内を各班長の前の机の上に頒つて「これを実費で買つてくれ」と申した。……斎藤は前回の下呂町議会議員選挙や、同町教育委員の選挙にも共産党として立候補され、又前回の衆議院議員の選挙の時も共産党の候補者を応援していた」旨の記載がある。

一、黒木正郎の検察官に対する供述調書には、

「自分は農業で農家班長であるが昭和二十七年八月初頃生産目標額の割当に関する議事で農家班長会議が下呂町役場で開催され会議が終つたので帰ろうとして持物を片付けていると私の左側二三人目に座つていた大淵部落の農家班長斎藤章治が身体をくねらせて私の方へのりだし、「黒木君共産党の資金カンパにしたいでこの本を一冊買つてくれんか代金五十円だ」と言つて、山旅案内一冊を差出した。斎藤君とは班長会議でつきあいもしていることですからまあ買つてやらうと思つて代金五十円を渡して買つた尚代金額は五十円より少い額だつたかもしれない」旨の記載がある。

一、松田梁蔵の検察官に対する供述調書には

「自分は農業で農家班長であるが昭和二十七年八月六日頃の午後一時から下呂町役場で農家班長会議が開かれた席上、斎藤章治が、山旅案内十部位を取出し、集つていた七、八名の班長の前へ一部づゝ頒つて「これを実費で売るから買つて呉れ」と申した。私は買う心算で仕舞込み、会議終了後、代金を二十円か三十円か覚えないが斎藤に支払つた。斎藤章治はソ連から引揚げて来てから私と同じ部落である関係上、私等部落の青年を集めてソ連の実情や共産党の話をしてくれたことがある。又前回の衆議院議員総選挙の時下呂町で共産党機関紙「アカハタ」を売つたり共産党の候補者島田貞雄の応援演説をした」旨の記載がある。

一、牧理平の検察官に対する供述調書には

「自分は農業で農家班長であるが、昭和二十七年八月六日頃下呂町役場で開かれた農家班長会議の席上、斎藤章治が私に「これは為になることばかり書いてあつて非常によい本だから皆に読んでもらう積りで持つて来たで買つてくれんか代金は一部三十円やがどうか」と言うのでその場で現金三十円を出して山旅案内一部を買つた」旨の記載がある。

一、今井貫一郎の検察官に対する供述調書には

「自分は農業で農家班長であるが昭和二十七年八月六日頃下呂町役場で開かれた農家班長会議の席上、机の上に山旅案内が頒られてあり、会議終了後、斎藤章治が「先の本は一冊三十円だ買わん人は返してくれ、この本は今度の選挙に真の我々農民代表を選ぶために三億の金が要るが、その資金カンパの為に売るものだ」と申され、私は共産党がどんな宣伝をしているものか一度読んでみたいと好奇心も手伝つて買う気になりこの他にも違つた本はないかと思つて、もう他に本はないかと言うたら斎藤が、「これがある」といつて益鳥と害鳥という題目の本を一冊私の方へ出してくれたので、これも三十円とのことで「山旅案内」と「益鳥と害鳥」各一冊を現金六十円で買つた。九月下旬頃、選挙期間中であつたが斎藤が夜一人で私方へ来て「これを買つてくれんかと「アカハタ」号外三部を出したので代金十五円で買つた。この号外を買つた時私は斎藤に球根栽培法があるかと聞いたら「ある」というので一部くれんかというたら承知してくれた」旨の記載がある。

一、中川繁太郎の検察官に対する供述調書には

「自分は新聞発行業であるが昭和二十七年八月末頃購読者の一人である斎藤章治方へ益田新聞を配達に行き、同家の表を入つた所で新聞を斎藤に配連したとき斎藤が奥から本を持つて来て私に「君こういう物を買つてくれんか」と申した。この本は山旅案内、益鳥と害鳥、工学便覧という三冊の本であつた。近頃の共産党がどんなことをいうておるかと好奇心もあり私の新聞を購読してもらつておる義理もあつて買う気になり代金はいくらか判らなかつたが私の腹積りで三十円を出して「これだけで足らんか」というたら、斎藤は三十円では不足しておるらしかつたが、「まあええはまあええは」といつて三十円を受取つてくれた。斎藤章治は同年の衆議院や、県教育委員選挙に際して下呂町役場の前で共産党候竄フ演説をしたのを直接聞いておるし、斎藤君自身もその前年の町会議員選挙や昭和二十七年の町教育委員選挙に共産党候補として立候補したこともある」旨の記載がある。

一、久保清雄の検察官に対する供述調書には

「自分は農林省農産物検査官として、岐阜食糧事務所益田支所下呂出張所に勤務当時昭和二十七年八月六日下呂町役場で農家班長会議が開かれ私はその開会直前議場へ行つたが、斎藤章治が「山旅案内」四、五部を積み重ねて置いて居り集つている班長の者も手に取つて見ていた。

その時斎藤君は「どうだ一部三十円やが買わんか協力して貰い度い」「どうや買つて呉れるか」と言つていた。同年八月二十四日午後一時三十分頃下呂町小川の主食出張配給所田口梅三方に行つていると、其処へ斎藤章治が自転車で来て、私に対し、風呂敷包の中から山旅案内一部を出して「破防法一号資金カンパに買つて呉れ」と言つた 私は「これはいらんで他のやつはないか」と聞くと同人は「今此処にはないが資金カンパだから買つて呉れ」と言い私が銭がないと言うと「銭は何時でも良い」と申したので山旅案内一部を受取つた。斎藤章治は現に下呂町農業協同組合理事、大淵部落農家班長で前回の下呂町議会議員選挙、及び下呂町教育委員の選挙に共産党を標榜して立候補した」旨の記載がある。

一、二村竹松の検察官に対する供述調書には

「自分は農業で農家班長である。昭和二十七年八月六日頃下呂町役場で農家班長会議があつた席上、斎藤章治が、山旅案内を各班長等の前の机の上に頒つてから、「此の本は良い事が書いてあるが実費の三十円で売るから買わんか」と申した。会議終了後、金は後で払うと斎藤に言つて山旅案内一冊を家に持つて帰つた。斎藤章治は前回の下呂町議会議員選挙や、同町教育委員の選挙にも共産党として立候補され、前回の衆議院議員選挙にも共産党の候補者を応援して居た」旨の記載がある。

一、中川登志夫の検察官に対する供述調書には、

「自分は農業で下呂町農業協同組合理事、農業委員会長及び農事調停委員の職にある。本年(昭和二十七年)八月二十四日頃の午後四時頃、下呂町農業協同組合の宿直室にいると組合の理事である斎藤章治が来て私に対し「こんな本があるが買つて呉れんか」といつて山旅案内一冊を出し、幾らかとたずねると五十円でも百円でもよいと申した。同じ組合の理事であり五十円位のものを断わるのもどうかと思つて現金で五十円支払つてその本を受取つた。その外に同年五月頃に右組合の事務所で斎藤から「日本共産党当面の要求―新しい綱領―」と言う本を五円で買つた。斎藤は私に対し下呂町郵便局前で町政批判の街頭演説をやるから聞きに来てくれと言つたことがあり、前回の衆議院議員総選挙には共産党公認島田候補を、県教育委員の選挙には共産党公認の宮川候補を夫れ夫れ応援し、下呂町教育委員会の選挙には自ら共産党として立候補した」旨の記載がある。

一、証人中川貞の「自分は下呂町農業協同組合の専務理事であるが昭和二十七年八月頃、右組合事務所で値段は覚えないが、斎藤章治から買つてくれといわれたので山旅案内一部買つた」旨の証言

一、被告人斎藤章治方から、日本共産党中濃地区委員会宛入党申込書用紙二枚(証第三十三号)、第11回県党会議一般報告(草案)―民族解放と平和への総選挙をどう斗うか―と題するビラ(証第三十四号)、吉田内閣打倒自由党粉砕のために全国民に訴う一九五二・八・二六日本共産党中央指導部と題するビラ(証第三十五号)宮本顕治名義「来るべき革命の性質と日本共産党の基本的任務に対する意見」と題する論文の掲載された紙片(証第三十六号)選挙対策ニユース(証第三十七号)、一九五二年八月十五日日本共産党竹原細胞名義「竹原村を良くするために今すぐしなければならない事と題する謄写版刷りビラ(証第三十八号)が押収された事実(昭和二十七年十月二十五日附司法警察員加藤巳津夫作成の捜索差押調書参照)

を綜合すると被告人斎藤章治は日本共産党届出党員の経歴を有し、本件頒布行為当時においても、同党党員仮に厳格な意味の正式党員ではなかつたとしても少くとも同党の党員に準ずる同調者として幾何の政治的活動のあつたこと、及び本件「山旅案内」の内容につき認識のあつたことが推認される。しかし同党員或は同調者であるからと言つて又山旅案内の内容に認識を持ち、頒布したからと言つてそのことから直ちにそこに存在し得る種々な意図の可能性を排除して前述の「内乱の罪を実行させる目的」を認定できるものではなく而も日本共産党への親近、関与、或は被告人斎藤章治と特別な政治的関係にあつたとも認められない前記各被頒布者(而も結果的に見て山旅案内の内容に反情を示すか、関心を欠くか黙殺する底となつている)に対する、右各証拠の示す程度の情況、言動の下になされた頒布行為から被告人斎藤章治に関し、単純なる宣伝頒布又は資金集めの意図を超過する「内乱の罪を実行させる目的」の存在を推認することはできない。(尚被頒布者の中には頒布した被告人の意図を忖度するごとき供述をするものがあるがかゝる想像的判断を採つて証拠にすることはできない。)

以上本件各証拠につき論述したところによつて、結局被告人斎藤章治には本件山旅案内の頒布行為を「内乱の罪を実行させる目的」を以て為したとの事実を認定することができない。

(3) 被告人田口早苗について。

一、岐阜地方公安調査局長作成の団規令届出事項の回答についてと題する書面には

「田口早苗につき届出年月日昭和二十四年十月十五日届出事項日本共産党加茂郡委員会構成員、届出年月日昭和二十四年十月二十一日届出事項日本共産党中濃地区委員会構成員(加入)届出年月日、昭和二十五年一月十三日、届出事項日本共産党中濃地区委員会金山細胞群委員会構成員(加入)届出年月日昭和二十五年一月十一日届出事項、日本共産党中濃地区委員会金山細胞群委員会東白川細胞役員(キヤツプ)、届出年月日、昭和二十五年四月十三日、届出事項、日本共産党加茂郡委員会構成員(脱退)」とある。

一、亀山幸の検察官に対する供述調書には(伝聞、想像部分は除く)

「私は日本通運株式会社金山支店車輛課の自動車修理工である。三和化学に勤めている頃共産党というものがどの様な政策を執るものかどういう政策によつて幸福な社会を建設するというのかひとつ研究して見ようと言う気になりその頃から同僚の上村君から、アカハタを借りて読み、或はマルクスの唯物論を買つて読んだりして居た。昭和二十七年三、四月頃一人の男が私の職場へアジビラをくばつて来た。それが田口早苗であつた。その後時々私の職場へアジビラをくばつて来たが、その後田口が私方の五十米位北側の田口久治方に泊まつていることを知りその頃から田口と話するようになつて田口に頼んでアカハタを購読するようになり毎号、田口が私の職場の宿直室へくばつて来てくれた。尚平和と独立という新聞もくばつてくれた。同年八月末頃夜、私が自宅へ風呂にいつて午後八時頃何時も寝泊りする日通の宿直室に帰ろうとして大船渡の足立金物商店の前の四辻の附近を通るときバツタリと田口に行き逢つた処、お互にやあ今晩わと挨拶してから、田口は持つて居つたパンフレツトらしいものを一冊、「おいこれをやる」といつてくれたのでサンキユーと言つて受取り宿直室へ一人帰つて見ると山旅案内であつた」旨の記載がある。(尚頒布した被告人の意図を忖度するごとき供述があるが、かゝる想像的判断を採つて証拠にすることはできない。)

一、証人升田貞夫の「自分は屑物行商であるが昭和二十七年頃私は下原村大船渡の亀山自転車店に出入していて、被告人田口もそこへ出入りして居たので知つた。同年十月二十日か二十一日頃と思うが寝ていると田口がやつて来たのでまあ上れと言うと田口は上り枕許に座り商売は儲かるかと言う様なこと言いポケツトから二、三冊本を出しその内の一冊をこれを読まんかと言つた。その際田口は本の一部を開けて見てここを読んで見よと言うので見ると大きな活字で武装の準備と行動を開始せよと書いてありそこを二、三行読んで本を下に置いた。そこは山旅案内の十三頁のところであつた。」旨の証言。

一、前記第五の(三)の(4)記載のごとく、被告人他一名が昭和二十七年七月十五日岐阜県益田郡下原村大船渡路上でビラ(証第七十八号の二)を頒布していた事実

一、証人中川佳也の証言、当時岐阜県立益田高等学校三年生の中川佳也の検察官に対する各供述調書中当時川田(河田)という名で交際していた被告人田口早苗との関係、その言動について供述している部分(伝聞、想像部分は除く)殊に証言中の「川田から日本共産党への入党をすすめられたことがある。川田が配つてくれといつて「アカハタ」等をもつてきたことがある。(註、中川佳也の検事調書の供述に関連しての問答において)……問、すると川田と言うのは軍事組織行動について指導したという事だがどう言う風に指導したのか、答、そこでは軍事行動組織と言つたかも判りませんが……問、その時川田が具体的にお前こうしよとかこうやれとか言われたりこういう武器を作れとか言われた事があるか、答、言葉にはその様に書いてありますがそう言われたという訳ではなく、細胞を作つたり組織を作つたりせよと言われた事は聞きました。問、資本主義から社会主義へ移る時は暴力革命に依るのだと言うのか、答、はいそう言う事は言われました。問、そのための武器はどう言う物をどうすると言う事は、答、それは言われなかつたと思います。問、火炎瓶はどうして作るのだとかダイナマイトはどうするのだと言う話は、答、言いませんでした。……問、共産党について理論的な事は田中さん(田中達郎)から聞き、実践的な事は川田、川上、斎藤等から聞いたとあるが、答、そうだつたと思います。問、実践的と言うのは、答、細胞をつくつてそれを大きくするのだと言うことで君は自治委員長だから社会科の時間にはこう言う話をしてこう言う風に持つて行け、社会主義にもつて行けと言う事でした。

問、川田さんから党(等とあるのは誤記)の実践的な面の指導は大体党機関紙の頒布範囲を拡大し特に固定読者を多く掴む様にしなければならない学校細胞を作つて若い学生達が中核自衛隊を組織し戦かわなければならない………云々と調書では述べているがそうだつたのか。答、そうでした。……問、川田から中核自衛隊をつくれと言われたと言うがどういう内容のものだつたか、答、学校の中で始めは五、六人でもよいから細胞をつくりこれを大きくして実践行動して行くのだと言うことでした。問、実践行動とは、答、ビラ張りしたり演説したりと言うことでした。問、武装せよとか武器を作れと言う事は、答、そういう事は聞きませんでした。……問、川田という人から幾種類もの印刷物を受取つたのか、答、そうです、問、受取つたものは何々か、答、「平和と独立のために」「山旅案内」「アカハタ」「水害対策」「益鳥と害鳥」「前衛」等です。……問、証人が「山旅案内」を他の人に渡す時どう言う積りで渡したのか。答、シンパだと言う人に普通の雑誌でも配ると同じ様に配つた訳です。問、普通の雑誌とは、答、「前衛」の様なものです。問、これを渡してどうして貰おうといふ様な事は、答、何も思つていませんでした。問、田中先生から受取る時か或はその前でもいいがこれを読んだ後どうせよ、こうせよという様な事を言われた事はなかつたか。答、そういう事はありませんでした。問、では川田からは。答、川田からは、「之は非合法の本だから気をつけよ」と言われました。問、そう言う事は田中からは言われなかつたか。答、田中先生からも言われました。……問、「中核自衛隊」という言葉そのまゝが川田の口から出たのか。答、そうです、問、それは選挙の時ビラをはつたり演説などするものだと思つていたのか、答、そうです。問、今は革命とか、暴力に依り政府をぶつたほすためには非常手段に訴える時だと言う話は聞かなかつたか。答、そういう話は川田から聞いていました。問、どう言う風に聞いたのか。答、昔の事で言つた言葉その通りは覚えておりませんが趣旨としては「暴力革命を興す時期は今だからそう言うための準備を心がけておらねばあかん」と言ふ事だつたと思います。問、それは何度も言われたのか。何かの話のついでなのか。答、何かの話のついでに言われたのだと思います。問、田中先生はどうだつたか。答、はつきり覚がありません、問、今どうせよとか、どう準備せよとかについて具体的には何か言わなかつたか又行動計画と言うことを聞かなかつたか。答、そう言う事は言わず「同調者に教えてグループを固めておかなあかん」と言つたのだと思います。問、益田高校では証人の見る所では生徒の中で証人以上に共産党に協力して活動していた人があるか。答、生徒の中ではそう言う人はなかつた様です、生徒は私が一番積極的だつたと思います……問、川田と言う人は中濃地区委員だと言うことを自分で言つていた事があるか。答、はいあります……」の供述。(尚中川佳也の検察官供述調書の記載はこの証言との比照において、且つ、当時同人が共産党関係活動に関係して日も浅くしかも高校三年生の年少者である点を充分に考慮せねばならないと考える。)

を綜合すると、被告人田口早苗は日本共産党届出党員の経歴を有し本件頒布行為当時においても同党党員、仮に日本共産党内部の―その点不明であるけれども―厳格正式の意味の党員でなかつたとしても少くとも同党の党員に準ずる同調者として、岐阜県下同党関係の政治活動に関与があつたこと、及び本件「山旅案内」の内容につき認識のあつたことが推認される。しかし同党員或は同調者であること、又山旅案内の認識ある、同文書の頒布行為がなされたことから直ちに前述の「内乱の罪を実行させる目的」を認定できないことは先に述べたごとくであり、而も日本共産党、或は被告人田中早苗と特段の政治的、組織的関係にあつたとも認められない前記各被頒布者(而も結果的に見て山旅案内の内容に反情を示すか黙殺の底となつている)に対する右各証拠の示す程度の情況、言動の下になされた頒布行為から、又当時の言動から(前記中川佳也の証言、供述調書には被告人田口早苗が所謂軍事組織、軍事活動に同調する意思を持つていた様に見える端端が窺われるが、これも先に論述した本件立証で認められる限度の岐阜県下の日本共産党の活動状況と考え合わせれば、果して、同被告人につき、主張宣伝の域を出た具体的実践の意図に化していたと認められるか否か甚だ疑問であり右端端の言動を重ね合せてこれを確定することは困難である)被告人田口早苗に関し、単純なる宣伝頒布の意図を超過する「内乱の罪を実行させる目的」の存在を推認することはできない。

以上本件各証拠につき論述したところによつて、結局被告人田口早苗には本件山旅案内の頒布行為を「内乱の罪を実行させる目的」を以て為したとの事実を認定することはできない。

(4) 被告人田中達郎について。

一、前顕証人中川佳也証言、中川佳也の検察官に対する各供述調書中被告人田中達郎との交際関係その際の同被告人の言動、同被告人より山旅案内の頒布を受けた際の情況に関する部分。

一、証人池本恕弥の証言、当時岐阜県立益田高校二年生池本恕弥の検察官に対する供述調書。

右は、昭和二十七年四月から右高校に教官として赴任した被告人田中達郎から、同年五月頃偶々休講の時間に自修の監督に同被告人が来た際、自由談話の形で級友と共に四、五十分、共産主義に関する話を聞いたその内容、その後同年十月初頃同被告人下宿先を学友荏開津典生と共に訪問した際、共産主義の話を聞いたその内容、山旅案内の頒布を受けた情況に関するものであるが、右供述調書中「これを読むと共産党の活動の状況が判るから読んで見たらどうだ、といはれ又この本は非合法のものだから他の者には見せない様にと言われた」旨の記載がある。

一、証人荏開津典生の証言、当時右高校二年生の同人の検察官に対する供述調書。

右は昭和二十七年十月五日頃学友池本恕弥と被告人田中の下宿先を訪問し共産主義に関する話を聞いたその内容及びその際山旅案内の頒布を受けた情況等に関するものであるが、右供述調書中「これは日共県委員会発行のものだが、こんなもの持つて行つて読んで見ないか余り人に見せてくれては困るといわれた」旨の記載がある。

一、証人岸義武の証言、当時右高校二年生の同人の検察官に対する供述調書。

右は、被告人田中から前記休講の際共産主義に関する話を聞いた内容等に関するものである。

一、当時右高校二年生の桂川錫の検察官に対する供述調書中「昭和二十七年九月中過頃学友の林と田中達郎の下宿先を訪問して色々話を聞いた際「アカハタ」があつて、林が、この新聞は何ですかと聞くと田中先生はこれは共産党が出している機関紙だが良い新聞だから読んで勉強してみよと言われ、一部づつ貰つて帰つた」旨の記載。

一、証人野中悦羌の証言、当時右高校二年生の同人の検察官に対する供述調書。

右は被告人田中から前記休講の際共産主義に関する話を聞いた内容等に関するものである。

一、証人都筑千尋の証言、当時右高校二年生の同人の検察官に対する供述調書

右と同旨の内容のもの。

一、調人日下部水棹の証言、当時右高校二年生の同人の検察官に対する供述調書。

右と同旨の内容のもの。

一、証人桂川徳則の証言、当時右高校二年生の同人の検察官に対す供述調書。

右と同旨内容のもの。

一、証人林弘の「田中先生の下宿先は五、六回遊びに行つたが、その間読んでみよと言はれて「アカハタ」「益鳥と害鳥」「球根栽培法」を借りたことがある」旨の証言

一、証人西村吉隆の証言、当時右高校三年生の同人の検察官に対する供述調書

右供述調書中には「私は昭和二十七年五月二十五、六日頃から七月末頃迄は殆んど毎日、夏休後九月頃からは週三日、田中達郎先生の下宿へ進学準備のために英語を習いに行つていたが、先生の本棚にはマルクス理論や共産主義関係の本があつて、私が見た本の名前で現在記憶しているものには益鳥と害鳥、国民評論、球根栽培法というパンフレツトやアカハタ等があつた。七月末頃と思ふが、何時もの様に田中先生の下宿へ英語を勉強に行き勉強がすんでから先生と雑談中先生は本棚であつたか床の間であつたか記憶ないが、小冊子一冊を持ち出して「これを読んで見ませんか」と言つて渡されたのが山旅案内である。受取つて帰り、それから一日おいて二日目に先生の処へ行つた時先生は「おととい、渡した本はどうだつた君の読後感はどうだ」と聞かれ、私はまだ読んでなかつたがそう答え難いので「面白かつたです」といいかげんの返事をすると先生は「それでは君の知つている外の人にも読ましてやつてくれ、代金は一部二十円だ」といわれた、無償でなく代金二十円ではそう沢山あづかつても分けてやることが出来ないと思い「四部位なら何とか分けてやります」と答えると先生は「それでは四人分頼む」と言われて「山旅案内」四部を出して来て渡された」旨の記載がある。

一、被告人田中達郎方において日本共産党当面の要求―新しい網領―と題するパンフレツト(証第五十号)、九・一四・地区選対より萩原細胞宛名義のアカハタ送付案内書(証第五十一号)一九五二・九・一五中央選対より各都道府県委員会宛名義のアカハタ特報の発行についてと題する通知書(証第五十三号)、日本共産党東海地方委員会宣伝教育部編名義「単独講和と日本経済の破滅」と題するパンフレツト(証第五十四号)が押収された事実(証人若宮繁一の証言参照)(尚押収にかかる金銭出納簿(証第四十九号)については、同意なく作成関係も不明な本文書の記載内容を証拠に採ることはできない)

を綜合すると当時岐阜県立益田高等学校の教官の職にあつた被告人田中達郎は日本共産党の主張に共鳴を持ち、相被告人田口早苗と交際して同被告人の日本共産党関係の活動にある程度の協力を与え、又生徒中川佳也が同党関係の活動に入つて行くことに或る程度の理論的はたらきかけをしたこと及び、本件山旅案内の内容に認識を持つていたことを推認できる。しかし被告人田中達郎を日本共産党党員と認めしめる証拠はなく、(被告人田中自身が中川佳也の問に対し「自分は党員でも何でもない」と答えていることが認められる)又本件証拠の示す同被告人の言動、活動程度では、その頃日本共産党の主張に共鳴して、その宣伝的活動の一端に親近接触する程度の関係を持つた同調者であつたと推認する外はなく、かかる同調者が、山旅案内の内容を認識して頒布した行為を目して直ちに「内乱の罪を実行させる目的」を以て為されたものと認めることのできないことは勿論証拠の示す、西村吉隆、池本恕弥、荏開津典生に対する頒布状況は、被告人田中の同人等に対する頒布行為が、共産主義理論、共産主義活動の説明の一端として、日本共産党の主張を紹介しようとする程度のものに過ぎず、共鳴賛同を意図する宣伝行為の域にも達して居なかつたことを認めしむるものである。更に中川佳也に対する頒布行為に関しても、単純なる宣伝頒布の意図を超過する、「内乱の罪を実行させる目的」の存在を推認することはできない。

以上本件各証拠につき論述したところによつて、結局被告人田中達郎には本件山旅案内の頒布行為を「内乱の罪を実行させる目的」を以て為したとの事実を認定することはできない。

(5) 被告人古滝富栄同後藤重博について。

(イ) 被告人古滝富栄に関し、

一、岐阜地方公安調査局長作成の団規令届出事項の回答についてと題する書面には

「古滝富栄につき届出年月日昭和二十五年三月二十一日届出事項日本共産党丹生川細胞役員(細胞キヤツプ)、構成員、届出年月日、昭和二十五年八月二十五日、届出事項、日本共産党丹生川細胞主幹者、届出年月日、昭和二十七年三月一日、届出事項、日本共産党丹生川細胞主幹者」とある。

一、和道一夫の検察官に対する供述調書には

「私は農業兼人夫であり古滝富栄、後藤重博は友達で良く知つている。古滝は隣部落で殊に終戦後は同人が高山方面に出るには何うしても私の家の前を通るのでお互に言葉をかけるようになり年も同年輩位で良く知つて居り、終戦後二、三年後位から私も議論好きなので同人と共産主義のこと等について論争したりするので私に共産党に入れとすゝめたり、共産党のパンフレツトや新聞等を読めといつて持つて来てくれた。昭和二十七年になつてからも日本共産党出版部発行の「シヤープ勧告で税は軽くなるか」というパンフレツト、日本共産党岐阜県委員会発行の「日本人のための教育」と言うパンフレツトの他九月初頃アカハタ二部を受取つた。パンフレツト二冊は二十円払つた。後藤重博君は私が復員してから間もなく復員してきたが、その後同年輩であり、後藤の家族が私の家の隣に疎開して居り、復員后は私の家の二軒隣に住んで居たので親しいのである。私は両君と親しくしているが、何時も寧ろ共産党と反対の立場に立つて良く論争等するのでありますが私も議論好きなので親しくしているのである。昭和二十七年九月五日前後、私が田圃の草刈をして夕方家に帰り家に入ろうとして居た処、古滝が自転車で通りかゝり私を見つけて自転車から降り、私の家の前の道端で自転車につけてあつた黒革鞄から一冊のパンフレツトを出し「これを読まんか、一冊二十円だ」と言つた。それは山旅案内で、発行所が書いてないので発行所は何処かと尋ね、又最初の一頁を一寸程切り取つてあるのでどうしたのかと尋ねると「この切つた処に発行所が書いてあるのだが見付かると具合が悪いので切つたのだ」と言う様な事を話し共産党岐阜県支部とか何とかから出ているのだと話して居りました。薄暗くなり向うも急いでいる様でしたので二十円わたし古滝君はそのまゝ帰つて行つた。内容は面白くないのでよく読まなかつた。………次は同年九月十二日頃雨降りで田圃の水を見廻つて朝九時頃何気なく後藤重博君の家に立寄りますと、まあ上つて休んでくれと言はれ後藤は引越仕度をしていたが古滝君も居り雑談していたところ、後藤か古滝かが、今度の選挙には共産党が大部出るだろうと云う話があり、そうなれば再軍備も軍事基地も出来ないし米軍も帰つてもらうことになり平和な国ができると言う様な事を申して居り私はこれに対し、平和な国には矢張り軍隊が必要だし、内乱を治めるためには、軍隊も警察も必要なのではないかと言うと、両名のどちらかで今吉田政府のやつている再軍備はアメリカの植民地政策の手先の軍隊で……このまゝで行けば吾々はアメリカのドレイになる丈だと言つて反対して来た。それから後藤の妻の春子が、古滝、後藤に、和道さんに仕事を手伝つてもらおまいかと言われ後藤は一寸と考えていたが古滝は手伝つて貰おうと言い、私は何か引越の仕度かと思い自分で出来ることなら、何でも手伝いますと申すと後藤は古滝に、「和道に夫では地下足袋を配つて貰おまいか」と云つたので私は地下足袋つてそんなよいものがあるのかと言いますと後藤は黙つて座敷を出て物置小屋の方へ行き間もなく青黒いフアイバーの様なトランクを一つ持つて来た。中に新聞包がありそれを開いて古滝が山旅案内二十冊を出し「これを一冊二十円で在所の人に配つて呉れないか」と言つたので私は「地下足袋とはこんなものか、こんな物を配るのはようせぬ責任は持たんぞ」と断わりましたが、古滝君は「そんな物はどうてことはないし警察が調べに来たら知らぬと言つて置けばよい」と頼み後藤も口添して頼むので、私も平常親しくしているので断わり切れなくなり持つて行こうと思つて、「それでは責任は持てぬが持つて行く」と答えた。古滝は「お前が配つたことがわからぬ様に他の名前で二十冊渡したことにして置くから大丈夫だ」と何か書止めて居た。……その頃のことで後藤が私に「君は火薬の方をやつているが雷管の余分が出ないか」とたずねたので私は雷管の余分なんか出そうと思へばいくらでも出せないことはないがいつたい何にするのだ、又そんな雷管だけ何にするのだ」とたずねました処、古滝と後藤の二人で他のものも都合できたら欲しいのだが他のものは他から入れるとか入れてあるとかだからどちらでもよいが雷管を都合して欲しいのだと申した。私が一体何にするのだと言うと、吾々は吉田政府を倒して人民政府を樹てるには警察とも斗はなければならないがこの前の東京の宮城前広場の事件を知つているだろうあのように我々共産党が行動しようとすると警察が弾圧して来るのでこれと斗うには武器が必要なのだと言う様な話をし又例えば吾々が高山で活動しようとすると高山の警察だけで駄目な場合は岐阜や名古屋方面からも警察が応援にやつて来るが、それにはサイドカーで来ることもあるし、汽車でくることもあるがこんな時これを防ぐ様に汽車を転覆させたりしなければならぬ場合もある、そんな時に使うのだ何うしても雷管が必要なのだと二人で強調して居りました又向うが大仕掛で弾圧してくれば、こちらも力には力で斗うより仕方がないのだとも申して居た。その様な話がすんでから、後藤が、私に君は字が上手だから選挙演説のビラを書いてくれと頼みましたので一応断つたが二人でたのむので、丹生川村小学校で島田候補の演説会が九月十三日にあるという意味の演説会告知のビラ二枚を墨で書いたところへ妻が呼びに来たので前述山旅案内二十部をもつて家へ帰つた。」旨の記載がある。

一、証人和道一夫の「革命が起きるとか内乱が起きるとか全然考えたことがない」旨の証言がある。

一、畑良兵の検察官に対する供述調書には

「私は農業であるが古滝富栄は小さい時から在所が近く、又神社の氏子の行事を一緒にやつた事があり良く知つている。昭和二十七年九月上旬午後七時頃丹生川村三の瀬の和田昭二方へギターの練習等遊びに行つていると古滝が訪ねてきてまあ上れと言うことで囲爐裏で三人が色々話合つたが、私は、古滝が共産党員と聞いていたのでその頃は選挙前でもあり冗談半分にえらい目の色を変へて歩き廻つているが共産党の天下でも取る心算かと申しますと古滝はうんそうや、吉田政府を倒して農民や労働者の味方である人民政府を造らなければだちかんと言う様なことを話し再軍備反対のことや、占領軍を撤退させねばならんと申して居た。そこで私は、現在の情勢で占領軍に撤退して貰おうと言つて簡単に出来るものではないし、革命を起すといつてもお前達は武器を持つている訳ではないし難かしい話ではないかと言う意味の事を申すと古滝はいや今は革命の時が来ている吾々の味方には無数の労働者、農民が居り、現に京都市辺では、アカハタを小脇にかかえて歩いていないと一人前ではないとさえ言はれていると申しましたので私はそんなことを言つていると縛られるぞと申しますと古滝は、俺の目を見よ、輝きが違うだろう革命の為に命を捨てるなら本望だと申して居た。そんな話をしている内に古滝は、持つて居たズツク鞄から新聞包を出し、中から一冊のパンフレツト(山旅案内)を出し「これを読んで見んか革命のことを書いてある本やで」と言う意味を言つた。その際代金は一部二十円とか申して居たが、私が金がないと言いますといつでもよいと強いて請求はしなかつた。

古滝は、この本を配つているのを見付けられると配つた者は警察に縛られるのだ……と言つていた。私は本をめくつて居ると中にパルチザンという言葉が出て来たので何かと聞くと、古滝はパルチザンとは人民軍とかのことで、例えば農民や労働者、つまり君達の事だと言う意味のことを言い例えば税務署が差押にきた様な時持合せの鍬でも何でも持つて敵に対抗し目的を達成させん様にすることであると言い、何処かの例を言つて差押に来た時肥柄杓で肥をぶつかけて差押をさせなかつた事があると言うような事も話していた。……それから私に君も革命のために働いてくれんかとも言はれました。……それから今度は私にいつかお前はピストルを持つていると言つたが、わけて貰えんか、とたずねましたので、私は冗談半分にどちらが売国奴か判らん様なものにピストルなんかわけるわけには行かぬ。いよいよとなれば自分が使はねばならぬのだと断りました。……ピストルというのは、私は持つているわけではないが、私が復員してから何処かで何かの機会に古滝に冗談半分にピストルを持つていると話したことがあるのである。古滝は三十分位居て帰つて行つた。」旨の記載がある。

一、証人畑良兵の「ピストルが欲しいというのは本心か冗談か私にはよく判らない。革命はおきつこないと思つていた。革命が起きると思つたら私なども、安閑(感は誤記)として、百姓などして居りません」旨の証言がある。

一、坂口昌平の検察官に対する供述調書には、

「私は農業であるが、確か昭和二十七年九月初頃の午後九時半頃古滝が、風呂敷包を持つて訪ねて来て私に「話したいことがある」と言うので部屋へ通して話を聞いたが、世間話や、雑談をしているうちに、私が非常に忙がしくて困る様な話をすると、古滝は「そんなことで忙しい目に会つているより俺達の様に共産党の仕事をやつてくれないか実はこんな本があるのだが」と山旅案内一冊を渡し「この本には共産党の主義や主張が書いてあり革命をする時に必要な本だ」「共産党のパルチザンになつてくれ」「パルチザンとは共産党の兵隊のことで例えば税務署等が差押えに来た様な場合竹槍等で自分を犠牲にして斗うのがパルチザンの任務で夫れについての詳わしい事はこの山旅案内を読めばよく判る」「これは警察官にみつかると逮捕される様な本だ」といわれ、代金は三十円だと言われた。私は共産党には全然共鳴もして居らず夫れまで古滝君は共産党に賛成している様な事を話した事もないのにこの様なことを頼まれてびつくりして「自分としてはそんなものにはようならぬ、忙がしくても今の通り時代の流れに沿つて働いて行くつもりだ」と言つて断つた。代金も丁度持ち合せが無かつたので断つたが古滝君は「まあいいから読んでくれ」と言つて置いて行つた」旨の記載こある。

一、証人坂口昌平の「パルチザンになつてくれとはつきりいわれたわけではない。共産党に関する知識は全然自分にはなく、近く日本に共産党の指導の革命が起きるということは関心がないし考えても見なかつた」旨の証言がある。

一、玉田和男の検察官に対する供述調書には、

「私は当時警察予備隊の志願をしていたが、昭和二十七年八月末頃、母が菓子屋をしている私方へ古滝富栄が来てパンを買つてから、前から何度も来て心易い間柄であつたので「ちよつと休ませてくれよ」といつて囲爐裏端へ上つて来て、何時もの様に私に対し共産党の話をして、共産党の良いと言う事や、その頃私が警察予備隊を志願している事を知つていた為、それをやめさせようとする気か警察予備隊の悪口を云い、二、三十分話しているうち、小さいパンフレツト(山旅案内)一冊を出して「自分のところへこう言う本が三十部ばかり来たが皆に分けてやつてこれだけしか残つていないが君も読んで見ないか」と言つた。そう言う共産党関係のパンフレツトを私としてはほしいとも読んで見たいとも思わなかつたが代金は一部僅かに十円という事であるし買つてやれば古滝が帰つて行つてくれるだろうと思い買いましようといつて現金十円を古滝君に渡した。……古滝は帰りがけに「この本を警察へ届けたり見せたりすると後でお前がひどい目にあうぞ」とおどし文句を言つた。私はその晩警察予備隊志願のことで役場吏員のところへ行つた際林巡査にわたしてくれとたのんだ。昭和二十三年三月頃から平均月一回位は古滝君と顔を会わせて居り青年団の寄り合があつたときは夫れ以上会つているわけですが、その都度同人は共産党の宣伝や私に共産党に入党する様奨めて居たのである。しかし私は全然共産党には興味がなく入党する気もありませんでしたので同人の話の内容を詳わしく聴いても居りませんでした為漠然と共産党の良い事を言つて宣伝していたとは言えますがこまかい内容は覚えて居りません」旨の記載がある。

一、被告人古滝富栄方から、前顕、子供のしつけ―軍事活動月報第五号―と題するパンフレツト(証第六十号)、前顕労農手帳No.1(証第六十一号)、前顕リーダース・ダイジエスト表紙付速報No.13一九五二・二・二五・「軍事活動発展のために」「中核自衛隊の組織と戦術」「速報号外労働運動の基本課題」と各題する文書(証第六十二号)、あすの装い(党建設者第二巻第十八号)と題する文書(証第六十三号)の押収された事実(証人松尾公一の証言参照)

(ロ) 被告人後藤重博に関し

一、岐阜地方公安調査局長作成の団規令届出事項の回答についてと題する書面には「後藤重博につき届出年月日昭和二十五年三月二十一日、届出事項日本共産党丹生川細胞構成員、届出年月日昭和二十五年三月二十二日、届出事項、日本共産党飛騨地区委員会構成員(新加入)」とある。

一、前顕、和道一夫の検察官に対する供述調書、証人和道一夫の証言。

一、向田久安の検察官に対する供述調書中には

「私は農業であるが、後藤重博は同年輩であり、青年団の行事を一緒にしたりして知つている。昭和二十七年八月上旬の午後九時頃私が寝ようと床についていると玄関口で私を呼ぶので出て行くと後藤で久し振りであつたから囲爐裏の側で雑談三十分位したときどこからか後藤が一冊のパンフレツト(山旅案内)を出して「これを読んで見んか」と申した。私は前から研究的な意味で共産主義に興味があつたと申しますか知りたいという気持があつたので夫れでは見せてくれと受取つた。そのまま別れたが、代金の話はなかつた。その後一応読んで見たがこの様な考え方に共鳴出来なかつた」旨の記載がある。

一、証人滑谷(旧姓羽根)清松の「自分は農業であるが、昭和二十七年九月頃、丹生川村大萱の若田方前路上で偶然後藤重博に出逢つた際同人がたゞ「見ないか」といつて山旅案内一冊を呉れた。その際世間話はしたが特に政治等の話もしていない。家にもつて帰りパラパラと見たが別に関心なく、失くしてしまつた。この外に後藤から共産党や共産主義の本を貰つたこともなく、共産党を支持もしていない」旨の証言。

一、証人増田秀平の「私は丹生川村の村長であるが、昭和二十七年九月に後藤重博が金を少しめぐんで欲しいと言つて来た、私は新聞記者などもよくいつてくるまあ寄附ということと解しているが、後藤の家庭事情を知つているので千円やつた。個人への寄附と思いその気持で金を出した。金をやると帰りがけにズツクカバンの中から「これを見て呉れ、しかしこれは皆に見せるものではないから読まれたら処分してくれといつて山旅案内一冊を渡して帰つて行きました。無知な若いものならとも角我々が考えれば出来そうもないことが書いてある共産党は馬鹿なことを言うものだと思つた」旨の証言。

一、藤原弘の検察官に対する供述調書には

「私は農業であるが昭和二十七年八月末頃、私が自宅で午後昼寝をしているとき後藤重博が洋服生地を持つてきて、「洋服生地二反なら安かつたので二反買つたが一反しかいらないから君一反買つてくれないか」といつて来た。「自分はいらないが近所で誰かほしい人があるかも知れないで聞いて見てやる」と言つてそれを預ることにしたが、後藤は私にそれを預けて帰りがけに縁側のところで白い薄い本一冊(山旅案内)を出して私に渡し「この本を読んで見んか」と言つた。私が「金はいるのか」と聞くと後藤は「貰うといゝのだが」と言うので「いくらだ」と聞きかえすと「二十円呉れ」といつていました。丁度こまかい金が無かつたので「後で金を払うから」と言うと後藤はうんそうかという様なことをいつてそのまま帰つて行きました。あまり興味がないので詳しい説明は全部読まず大きい見出しを飛び飛びに読んだ程度で後は本棚のところにしまい込んでしまつた。その後何処へ行つたか見当らない、二、三年前には、後藤と青年団の寄り合い等で一緒に合うことがあつたがその頃は共産党と関係がなかつたのか、共産党の宣伝等は全然しなかつた。後藤が共産党員になつたと昭和二十六年末頃人に聞いてからも一緒に酒を飲んだりしたことがあるが、別に共産党の宣伝らしいことを言いはしませんでした」旨の記載がある。

を綜合すると、被告人古滝富栄、同後藤重博は日本共産党届出党員の経歴を有し、本件頒布行為当時においても同党党員仮に日本共産党内部の―その点不明であるけれども―厳格正式の意味の党員でなかつたとしても少くも同党員に準ずる同調者として岐阜県下同党関係の宣伝等政治活動に関与するところがあつたこと、及び本件「山旅案内」の内容につき認識のあつたことが推認される。しかし同党員或は同調者であること、又山旅案内の右認識ある頒布行為がなされたことから直ちに前述の「内乱の罪を実行させる目的」を認定できないことは先に述べたごとくである。右証拠中には、被告人両名が和道一夫に雷管の都合を依頼したとか、被告人古滝が畑良兵にピストルを依頼したとか、坂口昌平にバルチザンになるよう話しかけたとか、等被告人両名が所謂武装、軍事活動に積極的同調を示していたのではないかと考えられる節々が見受けられるけれども、他方証拠によれば、和道一夫が被告人両名の主張活動に予てから反対して来たもので決して賛成共鳴を示さず、山旅案内二十冊の受交付の際も責任はもてないと断わつていること、及びそれを被告人両名が認識していることは明らかである。更に被告人古滝に対し共産党に対する賛成共鳴、関心を示したことなくバルチザンになつてくれといわれてびつくりして断わつている坂口昌平に対しまあいいから読んでくれと山旅案内を頒布している様子、現に警察予備隊を志願して居り今迄も色々の宣伝に応じて来ない玉田和男に対し、それを承知で山旅案内を頒布している情況、共産党に同調を示さない畑の冗談揶揄的発言に対する応酬の中でなされたのではないかと窺われる被告人古滝の畑良兵に対する発言、村長増田秀平に寄附を求めに行つてその帰りぎわになされた被告人後藤の頒布状況等各頒布時の言動事情を仔細に検討し、又人の性格にもよるであろうが強権に対する抵抗を内容とする宣伝行為には時に実に沿わない誇張呼号、激言の伴い易い点も考慮して行くと、日本共産党或は被告人両名と特段の政治的組織的或は従属的関係の認められない前記各被頒布者(而も結果的に見て山旅案内の内容に反情を示すか、無関心、黙殺の底となつている)に対する右各証拠の示す程度の情況言動の下になされた頒布行為から被告人古滝富栄、同後藤重博に関し、単純なる宣伝頒布の意図を超過する先に述べた如き「内乱の罪を実行させる目的」の存在を推認することはできない。

以上本件各証拠につき論述したところによつて、結局被告人古滝富栄、被告人後藤重博には、本件山旅案内の頒布行為を「内乱の罪を実行させる目的」を以て為したとの事実を認定することはできない。

第六、結び

以上本件全被告人について被告人等が判示認定の内容をもつ本件「山旅案内」を判示認定のごとく各頒布した際刑法第七十七条の罪を実行させる目的をもつて為したとの点は、全立証によるもそれを確認するに足る証明がないものである。

尚一言すれば、破防法第三十八条第二項第二号の犯罪が成立するためには、同条所定の構成要件が充足される以外に、先に述べた如くその所為によつて具体的に公共の安全福祉に対し明らかな差迫まつた危険が予見されることを要し、この要件の充足如何が同条所定行為の違法性を左右すると当裁判所は考える。言論等表現の自由は先に述べたごとく人性の本質に根差し、民主主義社会の基礎として不可欠の価値と効用を持つ。右要件の原則はまさしく西暦一九一九年三月三日ホームズ判事がシエンク対アメリカ合衆国事件の判決で宣明し、更にホームズ判事、ブランダイス判事によつて確立されていた明白且つ現在の危険の原則に拠るものと解せられるのである。この原則はアメリカ合衆国の判例上においてもその後種々の変遷を蒙つているが、我が憲法も規定し又よつて立つている自由民主主義社会―表現の自由に右の如き高き価値を認める社会において、表現の自由の濫用の認識根拠及び制限根拠となる普遍的原則であると考える。破防法第三十八条第二項第二号が規定するごとき内乱罪の実現を志向する特定の言論等表現の行為といえども、それが直ちに国家権力を以て制圧せらるる他なき場合は、それが、言論には言論の力を以てする言論自律性の域に最早放任できずその余裕も存しない具体的危険性を持つ場合であつて、本件頒布行為にあたつては本件立証においてかかる事態のたやすく認め難いことを附言する。

以上本件公訴事実は本件全被告人につき、刑法第七十七条の罪を実行させる目的の存在が証明不十分にして本件公訴事実は既にこの点において、その証明なきに帰する。そこで刑事訴訟法第三百三十六条に則り被告人全員に対し主文で無罪の言渡をしなければならない。

以上の理由により主文の通り判決する次第である。

(裁判官 山田義盛 後藤静思 白川芳澄)

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